いつのまにかあなたはそのドアの前にいた 後編 / 岡村友章


祖父の故郷である徳島県の山里を訪ねたことがきっかけとなり、日本茶の世界のドアを開けることになった。

まずはお茶を買って飲んでみようと思ったが、どのお店に行けばいいのか見当もつかず、当時は京都市に暮らしていたこともあって繁華街の有名店を訪ねることにした。

促されて奥のカウンターに腰かけると、女性店員は慣れた手つきで、小さな器にほんの少しだけのお茶を淹れてくれた。それは玉露という茶種で、一般に高級品として取り扱われている代物だった。高いのだから無条件においしいはずだ。当時の僕はそう思っていた。つまりそのお茶は、ちっとも美味しくなかった。店員は「いかがですか」と言い、僕は本心を述べる勇気がなくて、嘘をついた。

出鼻をくじかれた。自分の味覚は安物なのだろうか?高級品を理解する身体感覚が絶望的に足りないのだろうか?何も買わないのは後ろめたく、とりあえず適当な値段の煎茶を買って帰った。家で淹れてみたが、これも美味しくなかった。

次に手に取ったのは「茶柱倶楽部」という漫画だった。茶農家の娘が宝くじで高額当選し、日本茶の移動喫茶店を営みながら人々の生き様に触れる物語だ。この漫画では登場したお茶を購入できる店が紹介されており、滋賀の朝宮茶に興味を持った僕は大津市にある老舗を訪ね、店主夫婦の話を聴き煎茶を購入した。果たしてそのお茶はとてもおいしく、さらに探求しようと思う気持ちを呼び起こしてくれた。

同店の店主はいくつかのお茶屋をすすめてくれ、そのうちのひとつが奈良市の「心樹庵」だった。何かを手繰り寄せるようにして僕は先に進んでみることにした。

心樹庵には信じられないほどのラインナップがあり、店主夫婦の眼識の鋭さに僕はおののいてしまった。彼らは何も知らない僕に惜しげもなく様々なお茶のテイスティングの機会を与え、お茶に対する考え方を共有してくれた。その中で彼らが紹介してくれたのは、飯田辰彦氏の書いた「日本茶の『勘所』」という本だった。著者が自分の足で日本中の茶農家を訪ね歩き、見聞きしたものを自らの感性と織り交ぜて記している。茶業界に対するセンセーショナルな物言いが刺激的だ。

この本との出会いが新たな転機になった。なぜなら農家に着目しているまとまった情報源は、それまで見つかっていなかったからだ。お茶の美味しさ、歴史、マナー、嗜好性について書いたものは無数にあるが、生産者の人となりがわかるテキストがなかった。読みながら初心を思い出した。お茶の蘊蓄に興味があったのではない。祖父の故郷を訪ねたときに感じた、人があってこその郷愁。それが原点ではなかったか。



こうして飯田氏の執筆する「日本茶」シリーズ6冊を読み漁った。登場する農家に片っ端から電話してお茶を取り寄せてはエクセルの記録簿に書き込んでいく。しかしこれに飽き足らず、やがて現場に行ってみたいと思うようになった。

そこで、大阪から近い京都や滋賀の生産者の登場する回をいくつか読み返しているうち、滋賀県甲賀市の朝宮がとても近いことを思い出した。なかでも北田耕平・卓也親子の語りにはどこか反骨を感じるものがあり、簡単になびかない頼もしさは魅力的だった。

ある冬の週末、思い立って車を走らせた。大山崎ジャンクションから京滋バイパスに入り、笠取インターチェンジから出る。今では慣れたが、整備されていても知らない山道を走るのは少し緊張する。やがて視界はだんだんと開けて朝宮に入った。茶畑がそこかしこに見え、人影はあまりないが心が躍った。ここでお茶が作られているんだ!

飯田氏の本に載っていた北田さんの住所まで来たものの、どこがお宅なのか、工場なのか、わからない。そもそも事前に連絡すらしていなかった。不在だったらどうしよう。あるいは、一見さんお断りだったらどうしよう。

電話をかけた。

「もしもし、こんにちは。岡村と申します。飯田辰彦さんの本を読んで、北田さんのことを知り、お会いしてみたいと思ってお電話をしました。実はいま、朝宮にいます…」

そうして目の前にあった事務所に出てきてくれたのが、父の耕平さん。初めて対面する茶農家。嫌な顔ひとつせず、しかし満面の笑みで歓迎という風情でもなく、淡々とした受け答えをする方だったがかえってそれが自然で緊張がほぐれた。若いのにお茶に興味があるのか、と耕平さんは驚く。僕には逆にそれが驚きで、業界のおかれている苦しい状況をそのままに表していると感じた。

彼らが作っているのは、すでに国内では主流であると思われる「深蒸し煎茶」とは対極にある「浅蒸し煎茶」。そのなかでも、かなり蒸し時間の短いものだった。

※煎茶は、摘んだ茶葉を蒸気で蒸し、揉みながら乾燥させて製造する

浅く蒸すことで茶葉がもともと持っている風味を損なわない。また香りを殺さず、爽やかで口当たりのなめらかな朝宮らしいお茶だ。さらに「火入れ」という乾燥工程も行わず、あくまでも自分たちがおいしいと思っているやり方を、世間のトレンドとは関係なく続けている様は格好がよかった。

それでも、これは孤独な闘いだ。のちに耕平さんと再会したときに「耕平さんは、どんなお茶がいちばん好きなのですか」と聞いたときのこと。「それは…やっぱりコレ(自園の煎茶)やな」と彼は煎茶を淹れながら語ってくれた。「うん。ほんまにおいしいと思いますよ!」と熱っぽく僕も気持ちを伝えると、彼は涙ぐんで「そんなこと言ってくれるんは、岡村くんだけや」と言った。

このとき僕は、茶農家が消費者といかに遠いところにいるかを感じざるを得なかった。プライドを持って作っているものに対する素直な感想を受け取る機会が、実に少ないのだ。鑑賞者の反応を知ることなく作品を作り続けられるアーティストが、一体どれくらいいるだろうか?このことは戦後の農業を支えてきたJAの強固な仕組みが、予期せぬ形でいま問題を炙り出していることに他ならない。

お金を保証してきた仕組みは、その形態ゆえ作る者と口にする者の心理的距離を近づけることなく存在し続けてきた。日本茶は斜陽とすら言われる時代に突入して久しい。このまま彼らの営みが知られることなく終わりを迎えるのを見たくないと僕は思った。彼らが再びプライドを胸に活力を蘇らせ、作る者と口にする者の重なりを厚くしたいと。

そんな北田家との出会いが、次のドアの前に立った瞬間だった。

そこからは今日までドアの連続だった。開けども終わりのない部屋がいつまでも続き、今はいくつ目のドアを開けたところにいるのだろう。ドアを探し続けることが楽しくもあるけれど、ときどき寂しい気持ちになることもある。初心を思い出しては、祖父とこの話をもっとできればと悔やむ。

ただ前を向いて猛進するのは苦手だ。だから僕は、いままでに開けたドアをすべて開けっ放しで一直線に並べて、最初のドアの奥に、いつまでも祖父の故郷の情景が見えるようにしている。

話の続きは、あなたとお会いできたときに伝えたい。あなたのドアの話も聴きたいと思うからだ。



いつのまにかあなたはそのドアの前にいた 前編 はこちら。



岡村友章

大阪府島本町に生まれ育ち、いっとき離れるも戻る。「にほんちゃギャラリーおかむら」主宰。茶農家に会い、ときに農作業や茶工場の仕事を一緒にしつつ、彼らから茶葉を仕入れて販売している。


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