いつのまにかあなたはそのドアの前にいた 前編/岡村友章

突いても崩れない野望とか、子どもの頃からの夢とか、それらしいものがなくても生活はおもしろくなるものだ。

僕は、大阪の島本町で妻と子ども2人と生活しているお茶屋だ。子どもの頃の夢は海遊館の職員だったけれど、小学生のときに図書館で「水産学」の本をたまたま手に取ってみたら、あまりにも難解であっさりと諦めた。

3年前に亡くなった母方の祖父が大好きだった。彼は徳島県の山里出身で、10代のとき仲間たちと京都で工務店を興し、やがて大阪の高槻市に身を移して暮らした。

大酒飲みで、酔うと祖母に悪態をつくのが常。亭主関白のひな型みたいなじじいだ。反面、孫は猫かわいがり。口癖は「人間は思いやりが大事なんや」。おいおい、おばあちゃんに滅茶苦茶しておいて、それ言うかって。

祖父母の家ではいつも飲んだのは、急須で淹れたお茶だ。祖父の田舎で作られた煎茶もときどき飲みながら昔のお茶づくりの話を聴いたけれど、「ふうん」としか思わなかった。どんな話だったかほとんど覚えていない。

祖父が心臓を悪くしたのは僕が高校生のころ。じわじわと体力を失う祖父だったが、入院し「今回は覚悟を」と医師が言ったあとで何度か自宅に凱旋してみせた。なかなかしぶといなと、内心ほっとして皆で笑った。

とはいえ、最期の数年は自宅のベッドからほぼ動けない日々になった。それでも口から出るのは故郷の話ばかり。さすがに気の毒になった僕は、祖父が会いたい人や見たい風景をあらかじめ聞き出して、ひとりで車を走らせ徳島へ行ってみることに。2014年、紅葉が深まってきたころだった。


家賀(けか)集落は、巨大な谷を挟む斜面の北側に広がる、つるぎ町の寒村。祖父の生家にはもはや誰も居ないものの、隣に暮らす友人夫妻が健在だった。事前に連絡もせず呼び鈴を押し、出てきたのはおばちゃん。怪訝な表情をされたのも無理はない。訪ねる人のほとんどない里に突然20代の男が連絡も無しにやってくるのだから、怪しまないほうがおかしい。

「武田光夫の孫です。祖父は介護生活を余儀なくされているので、代わりに故郷の風景を写真に収めに来ました」そう言うと、おばちゃんの顔はぱっと明るくなり、上がってと促された。「なんにもないけど」とおばちゃんは大量の菓子と煎茶を出して、旦那さんも話に混じる。

そのときの煎茶こそ祖父が愛飲してきた故郷のもの。体調ゆえ訪ねることが叶わない、いとしい故郷の。何度か祖父の家で飲んできたはずなのに、なぜかそのときはとりわけ美味しくて、何度もお代わりを求めた。「そんなに美味しいの。私らも嬉しいな」と、おばちゃんは張り切って何回でも注いでくれる。

それが僕も嬉しくて、いったい何杯飲んだことだろうか。最後は白湯みたいな味だったと記憶している。このときほどにお茶をおいしいなと思った体験はいまだにない。そこには居なかった祖父と自分の気持ちが通い合って、彼の幼少期からの時間を追体験するような、不思議な気持ちがした。

その後あちこちを訪ねて写真を撮り、話を聴き、夕方には集落を出発。土産にもらった大量の野菜とお茶を積んだ車を見晴らし台に停めて、家賀集落を眺めた。なんだか泣きたくなって、ぐぐっと出てきたのを境に止まらなくなってしまった。あのおじいちゃん、どんな子どもやったんやろか。ここを去って京都へ行くとき、どんな気持ちやったんやろ。いまベッドで何考えてんのかな。いずれにせよその足取りの先端に自分の命があるんやな。浮かんでは消え、浮かんでは消え。思いが去来した。

もうほとんど人がいない集落で誰も通らないから、安心して泣けたのは皮肉だ。

旅の報告をベッドで聴きながら手作りの写真集を眺める祖父は満足気だったし、祖母は写真集をご近所で見せびらかして自慢していた。よかった。

この一連の体験が変化のはじまりだった。お茶は僕の自らのルーツを豊かに彩ってみせてくれた。この特定の植物の葉を摘み乾燥させたものは、どうやら自分と相性がいいようだ。もっとたくさん見たい。知らないことを知りたい。その傍にいる人がどんな思いでお茶と向き合っているのか聴きたい。

いつのまにか僕はそのドアの前に立っていた。

この機会は特別に与えられたものではなく、ただ気の毒な祖父の気持ちを少しでも和らげてあげようという素朴な気持ちから足を動かし、たまたまそうなったのだった。こうしたことは今日明日に誰の身に突然起きてもおかしくなく、あくまでも日常の延長線上にある。

そうして日本茶の世界に飛び込んだ。お話の続きは後編で。



岡村友章

大阪府島本町に生まれ育ち、いっとき離れるも戻る。「にほんちゃギャラリーおかむら」主宰。茶農家に会い、ときに農作業や茶工場の仕事を一緒にしつつ、彼らから茶葉を仕入れて販売している。

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