私的皮革的覚書 2 / 内澤旬子

 今ならそこまで衝撃を受けた本なら間違いなく購入するだろう。しかし当時の私には大型本を買うお金もないし、タイトルさえわかれば新刊どころか古書もすぐに探し出すことができ、価格を問わなければ三日後には手元に届く、という時代でもなかった。

 それになにより一度読めば十分だったのだ。だって本のことだもん。本は、小学生のときに何度も作ったことがある。本と名づけるのもおこがましいものだけど、紙を切っては折って、絵を描いて文字を書いて、ホチキスでとめたり、穴をあけて束ねたり。

 そうやって作っていていつも不満だったのは、どうしても本がちゃんと開かないことだった。

 「売ってる絵本」はぐいっと奥まで開くことができて、絵をつなげて見ることができるのに、自分の作り方ではそれができない。平綴じだから当然だ。中綴じにすれば、奥まで開くことはできるけど、今度は背が平らにならない。

 そうか、折山に穴をあけて、糸をくぐらせてかがればいいのか。かがってから厚みを測って、表紙と裏表紙につけるボール紙の厚みを足せば、背のボール紙の幅が出るんだ。な、る、ほ、ど。

 もともと手先は器用だ。針と糸とカッターなら小学校のときから持ち慣れている。ああしてこうしてと、頭の中でシュミレーションして読んだためだろう。本を買って読む、を飛び越えて、コピーすら取らずに、もう頭の中は自分も本を作る気で満々になっていた。

 何を作るのかも、すぐ決まった。

 ポールエリュアールの詩に、マン・レイの挿絵がついた「自由な手」という詩集だ。瀧口修造翻訳。マツダオフィスの書架にあった古い「みずゑ」に附録として、別刷りで挟まっていたものである。これを一ページずつコピーして、トコーでお使いのついでに買った、レイアウト用紙に貼り付ける。ページ割付、である。

 本を綺麗に開くように綴じるには、折丁といって、紙を何枚か重ねて折った折山に糸を通す。本来一折り十六ページらしいが、手に負えなさそうなので、八ページにした。

 さらにコピー機に入るように、ひと見開きずつ版下を作った。一ページ目の隣には八ページが来る。細いペンで、トンボもひいた。

 附録から少し拡大コピーしたページを切り取り、スプレーのりで、版下に貼り付ける。

 タイトルページや奥付は、ワープロで打って、マツダオフィスのコピーで長体、つまり縦長に変倍をかけ、ごていねいに字詰めまでして作った。

 マン・レイのイラストとぶつからないように、タイトルページは文様で飾りたい。当時腰まであった自分の髪の毛を何回もコピー機にはさんではコピーして、それっぽい雰囲気の模様を作った。

 要するに松田さんの真似事がしてみたかったのだ。

 しかもちょうど大学からマツダオフィスに行く途中に、お洒落な紙屋さんが並ぶペーパーストリートと呼ばれる通りがあった。そこで紙を買い込んで、A3に切りそろえて、マツダオフィスのコピー機に差し込んで版下をコピーした。

 裏表、ずれないようにコピーをするのは実に大変だ。手差しの給紙口に同じ力で押しながら紙を差し込んで、紙の端を同じ角度で支えないと、五ミリどころか一センチもずれてしまうし、斜めにも入ってしまう。松田さんが出勤する前に早く来て、コピー機と格闘しまくった。

 松田さんは面白がって「いいよ、勝手に使ってどんどんやりなよ」と言ってくださった。松田さん自身、美大のデザイン科でデザインを学んだわけではなくて、法学部の学生時代に学生運動をしていてアジビラを書くうちにデザインに興味を持ったのだという。

 その後工作舎の松岡正剛や杉浦康平が作る雑誌「遊」にかかわるデザイナー、戸田ツトムの元に転がり込んで修行したんだそうだ。

 なんにも知らずに履歴書に足穂だの澁澤だのと書き散らした自分の厚顔が恥ずかしい、なんて思う回路どころか、自分がすごい人のところに飛び込んでるんだという自覚も、正直あんまりなかった。

 コピーを終えた紙を大事に自宅に持ち帰り、就職して家を出て行った兄の部屋に大きなちゃぶ台を持ち込み、紙やのりや木工用ボンドを広げる。

 兄の部屋にはテレビがあった。九時の水曜ロードショーは「2001年宇宙の旅」だ。見なきゃと思ってた名作だ。明日会う誰かと話題に上るだろうし。テレビのスイッチを入れた。難解そうな音楽が鳴り響く。ところがサルがバナナを投げるシーン以降、先の記憶が、一切ない。

 本を作るのに夢中になってしまって、画面を見ることができなかったのだ。

 裏表でずれてるトンボに苦労しながら紙を切りそろえて折って、表紙を作り、なんとかかんとか合体させた。

 プレス機もなにもないし、きちんと計算して測り切ったはずの見返しがたりなくて、変なところで途切れてしまった。一度全面にのりをつけた紙というのは、水分を吸ってもうどうにもならない。張り合わせて、乾くのを待つしかない。のりづけ作業はやり直しはきかないのだ。ジャポニカ百科事典を重し代わりにして、押しながら乾かす。

 はなぎれには、厚手のリボンを折り曲げて入れた。見返しと表紙に選んだのはマーブル模様の包装紙。松田さんが当時手がけていた博品館の本にマーブル模様が使われていて、かっこよかったからだ。

 奥付には自分の雅号を冠した小さな紙も縮小コピーして作って貼った。蔵書票なのか、著者印紙なのかもよくわからないまま、古本の奥付にそういう紙が貼ってあるのを真似したのだった。雅号は、入学してすぐに入った美術サークルで、絵を描いていたときに格好つけるために作ってあった。碧鱗堂という。永井荷風やら山田章博やらにかぶれていたのが丸わかりな雅号である。

 できた……。

 夜中までかかって完成した本は、細かい部分はへんな形をしていたけれど、それでもぱっと見には、売ってる角背の本と、変わりないように、見えた。やった……。

 翌日すぐに前の本の失敗をふまえて、二冊目を作った。見返しは綺麗に端っこまで貼れたが、本の溝が綺麗にいかなかった。そこんところはほとんど一発勝負みたいなもので、どうすればきちんときれいにできるのか、全然わからない。まあ一応本の形にはなったけど。

 次のバイトの日、出来上がった二冊の本を松田さんに見せた。

 「へえ、これ作ったの? すごいじゃない。見返しマーブルで。え、ラッピングペーパーなんだ。ふうん。化粧扉までついてる。青いトレペにも印刷してたの?そこのコピーで?……いやあ……。うわ、これなに、髪の毛をコピーしたの……ふふふふふ。いや、いいんじゃない」

 松田さんはニヤニヤ笑いながら、本を閉じた。そりゃ、こんなコテコテなデザイン、見せられるほうも恥ずかしくて、笑うしかないだろう。でも私は本気で鼻高々だった。

 前期も終わり、そろそろ就職活動に本腰を入れなくちゃならない時期になっていた。いや、実はすこしOB訪問も始めていた。で、すでに不適格ということでお断りされてもいた。大学のクラスメートたちは、続々と内定をとっていた。哲学科の女子なんて、どこの企業も採ってくれないのかと思ってたのに、みんなどんどん事務職の内定をとっていく。しかも大企業の。

 就職活動をしなかったのは、ヘーゲルとマルクスを原文で読みに入学した、と新入生紹介のときに豪語していたウメキさんという女子だけだったはず。

 彼女は入学後すぐに文連と呼ばれる大学の自治組織から革マルに所属したようで、授業にもなかなか顔を出さなかった。その後八年くらい大学に居残っていたようだ。

 それにしても企業もよくみんなに内定出すよなあ。とんでもない時代になったものだ。ちょっと前までは、四年生大学卒というだけで、就職先がなかったのに。

 ま、短大に行った高校の同級生は、証券会社のOLになってすぐに七十万円のボーナスを貰って吃驚したって同窓会で言ってたから、もっとすごいところに行けるということなのかな。

 本当は本なんか手作りしてる場合じゃなかったんだ。わかってる。バイトの合間に図書館にいるなら、せめて卒論の関連資料を集めるべきだった。

 でも、どうしても自分の手で本を作ってみたくて、たまらなかったのだ。

 そして予想もしてなかったんだけど、本を作ってみたら、ものすごい手応えを感じてしまった。やっぱり本を作ることに関わる仕事ができたらいいなあ。

 いや、正直に言えば、本当は仕事なんかどうでもよかった。でも卒業したら働かなくてはならない。お金は欲しい。親から離れて一人で暮らしていくだけの、収入が欲しい。

 ならばやっぱり本が身近に出来上がっていくところが、いいのかなあ。でも出版社は、競争率の高い狭き門。秋から大手版元の試験が始まる。もちろん受けるつもりでいるけれど、自分の学力じゃあ、記念受験に終わるだろうなあ……。

 手で一冊ずつ作る本と、何万冊何十万冊という単位で生産される本。ぜんぜん違うんだろうことは、わかっている。でも何がどう違うのか、まったくわからない。そんな現場で本当に働きたいのかもわからない。

 なにより自分が感じた手ごたえが、通用するのかすらも、わからない。なんにもわからない暗闇を、突き進まなくちゃならない時期が、目前にせまっていた。不安でたまらなかった。




内澤旬子
1967年神奈川県生まれ。ルポライター、イラストレーター。11年「身体のいいなり」で講談社エッセイ賞受賞。著書に「世界屠畜紀行」「飼い喰い 三匹の豚とわたし」「捨てる女」など。現在小豆島在住。

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