私的皮革的覚書 1 /内澤旬子


生乾きの鹿の毛皮の周囲に、彫刻刀でポツポツと穴を開ける。ナイロンの紐の先を焼いて固くして、穴に通して通しては、枠に巻き付けていく。一週間ほどミョウバンの溶液に漬けた毛皮は、わずかに生臭さが残るものの、このまま放置してもすぐに腐敗はしない、なにかに変容している。そんな匂い。皮から革へと、変わりつつある。

 全周囲をだいたい同じテンションになるように、紐の張り具合を調整して、貼り付けた。ああ、この構図、凄くなつかしいな。

 何度も何度も、似たような光景をみてきた。イギリスの羊皮紙工房、エチオピアの復活祭、バリ島では地面に釘のようなもので貼り付けていたような。羊皮紙や太鼓革、毛皮、革など、仕上がりも工程も少しずつ違うのだけど、どことなく共通しているのは、つまりはもとの原材料が、動物の皮膚であるから。

 旅をしながらそんな光景ばかり追いかけていたときは、まさか本当に自分の手で獣を仕留めて解体し、皮を剥いで鞣すことになるとは、思いもしなかった。

いや、心の片隅ではいつかやろうと思っていたのだろうか。

 本連載では、これまでの皮革を巡る旅や手仕事の記憶とともに、現在小豆島ですこしずつ試している皮なめしについてまで、書いていきたい。

 そもそもどうして皮革が気になって追いかけるようになったのか。話は三十年近くも前に遡ってしまう。そしてなかなか素直に革に辿り着かないかもしれませんが、どうかゆっくりおつきあいいただけたらと思います。

 1987年、大学四年生のとき、私は表参道にあったグラフィックデザイナーの事務所でアルバイトをしていた。今や大御所である松田行正さんの個人事務所、マツダオフィス。松田さん、当時四十代半ばだったか。すでに女性誌”25ans”のアートディレクションなど、大活躍されていた。

 グラフィックデザイナーになりたかったわけではない。恥ずかしながらそれまでグラフィックデザイナーという職種をよく知らなかった。デザイナーといえば服を作るものだと思っていた。

 応募することとなったのは、表参道から徒歩十二分ほどの立地にある國學院大學という、極めて地味な大学の文学部哲学科に通っていて、一階の学生課の掲示板に出るアルバイト情報に載ったから。ただそれだけなのだった。

時給……良くも悪くもなかったような。いや、少しは良かったかな? 隣に貼ってあった「犬の散歩」にも惹かれ、どっちにしようか迷ったのを覚えている。ともかく大学の近くで働きたかった。移動が嫌いなので。

 面接に行ったら、黒シャツに黒縁メガネの人からレポート用紙を一枚渡されて、連絡先などの他に好きな作家を書いてと言われて、澁澤龍彦、稲垣足穂、大庭みな子、岡本かの子と書いたところ、唇の端で嗤われ採用となった。

 アルバイト内容の大半は、「25ans」のページを作るためのトレースという作業だった。

 一枚ずつ透明な袋に入った百枚位のポジフィルムに、クレヨンみたいなペンでp126 A-2というように、数字や記号が振ってある。そのほとんどが口紅などの化粧品だが、たまにはモデルさんの上半身ショットなどもあった。

 それらを一枚ずつ指紋がつかないようにピンセットで袋からつまみ出し、トレスコと呼ばれる機械にセットして、内蔵のライトをつけると、下に写真の画像が拡大されて映る。

 ここに誌面見開き分の薄緑の方眼に、天地左右に八センチくらいの余白がついたレイアウト用紙を置く。用紙に書かれた記号と照合し、ここらへんにという鉛筆で記された空欄にあてはまるように、トレスコのねじをくるくる回しながら大きさを変え、ピントを合わせ、シャープペンシルで写真の輪郭をなぞって描き込むのだった。

 さらに物差しと電卓を使って鉛筆で書いた「アタリ」がポジから何パーセント拡大、もしくは縮小なのか、を計算して記入する。

 印刷所に向けてのレイアウト指定、というやつだ。今ならばすべてパソコンの画面上でできる作業なのだが、当時コンピュータとワープロはあっても、パソコンを持つ人はほとんどいなかった。

 松田行正さんはデザイナーの中でも相当早くグラフィック作品にパソコンを導入したのだが、それでも当時はまだ彼の事務所にパソコンはなく、雑誌のこまこましたレイアウト作業は膨大な手作業によって進められていた。

 書いてみるとなんとも七面倒な仕事に思えるが、当時の私は自分が何をやっているのかよくわからないまま、このポジフィルムのトレースが大好きで大好きで、たまらなかった。むしろパソコン上でレイアウトソフトを使って作業する今のほうが、高速大量処理できるにもかかわらず、苦痛だ。

 小さな冷蔵庫の上に載ったトレスコにかじり付いて、膝立ち中腰のまま、何十本という口紅を間違いなくなぞり続けた。

 日替わりバイトの誰よりも上手だという自負すらあった。性に合っていたのだ。ま、今やってくれ、といわれたらどうかわからないが。

 アルバイトのお仕事は、あとはお掃除と、そしてもうひとつ。お使いである。よく行く場所はトコーというデザイン文具洋品屋。246号線沿いにあった。3Mという貼ってはがせる糊や、トレーシングペーパーをよく買いに行かされた。こんなマニアックな道具が製品として成り立っているということは、こういう仕事をしている人がたくさんいるってことになる。世の中ってすごいなと、ひたすら感心していた。

 そしてシャショク。なんだかよくわからないのだが、シャショクというものをあっちで受けとり、こっちの事務所や会社に届けたり、を繰り返していた。

 自分がいつもなにを運んでいるのか、ずいぶん後になって、急ぎの仕事だったらしく、松田さんが目の前で封筒を開けたときに知った。

 文字だったのだ。ものすごく綺麗な文字が、ぺらぺらした真っ白い紙に、くっきりと印刷されてる。なんですか、これ。

 「写真植字。書体と大きさとかを指定すると、打ち出してくれるの」

 松田さんはいつも追われるようにせかせかちゃかちゃかと仕事をしていて、何をしているのか、尋ねるのがはばかられたが、聞けば短く早口だが教えて下さった。

 「これに貼って、版下っていうのを作るの」

 黄ばんで傷だらけの半透明の大きな樹脂板を取り出し、3M糊のうすめ溶液をティッシュに垂らして汚れを丹念に拭き取り、糊の缶容器の白い蓋をくるくる回す。蓋の裏側はマニキュアの瓶のように蓋がついていて、缶容器の縁で筆についた糊をしごいてから、裏返した写植にささっと糊を均一に塗りつける。糊の乾いた写植を板の上で裏返してぺたりと貼り、オルファカッターに金尺をあて、文字の大きさぎりぎりに切る。

 「これ、そのまま印刷する版下だから、断面がね、黒く写るといけないから、四十五度に切ってるんだよ」え、この薄い紙の断面をですか!? 目を近づけて見ると、たしかに斜めに削ぎ切りになっている。うわーっ。

 呆然とするのはまだ早い、とばかりに松田さんは今度は並んで単語になっている文字同士を切り離す。文字と文字の間の白いわずかな余白を切り取って文字の距離を縮めたのだ。いわゆる「文字詰め」というやつである。八十年代、杉浦康平を筆頭に文字をきちきちに詰めるデザインが、とにかくかっこよかった時代である。

 「写植のツメが甘いから、こうして自分で詰めるの」

 松田さんは脇の大きな封筒のから白い厚紙を取り出す。線が引いてあるなかに、写植文字がきちきちと貼りつけられている。どこかで見覚えのあるような、ないような。

 ああ、これ、ひょっとして本の表紙を広げたところですか。

 「えっ。いまごろ気がついたの?」

 松田さんが一番愛する仕事、それは書籍の装丁なのだった。真ん中に貼られた大きな文字は、本の背タイトルだったのだ。こっちが表紙かあ。突然のタイトル変更で、表紙と背表紙の写植を貼り替えねばならなかったというわけだ。貼ってあった写植をはがし、ピンセットで新しい写植を貼りつける。

 貼りつけ面を保護するためにトレーシングペーパーを被せ、背面でセロテープで留めた。

 「はいこれ××社のナントカさんのところに持って行って渡して。地下鉄何々線某駅だから。渡したらそのまま帰っていいよ」

 当時マツダオフィスでバイク便を見かけた記憶がない。たぶんまだ一般的じゃなかったんじゃないだろうか。こういうお使いをしょっちゅうしていた。

 それにしても、印刷というものは、印刷所がするとして、そのまえにこんな作業があったのか。こういう形にしたいと思ったら、その指示書を書くというのはわかるんだが、こんなに綿密にやるものなのか。それがグラフィックデザインというものなんだー。へーえ。

 本も、雑誌も、こんなに大変な作業でできているのかあ。書いた文章を渡せば、印刷所がなんとかしてくれるもんなのかと思ってた。ぜーんぜん知らなかった。世の中にはいろんな仕事があるんだなあ

 グラフィックデザインのほかに、松田さんはミニ出版社を立ち上げていた。牛若丸出版という。へえ、出版社って作ることができるんですか?という私の質問に、取り次ぎと発売元になってくれる会社の説明を、松田さんは早口ながらもかなり熱心にしてくださった。けれども当時は一ミリたりとも理解できなかった。

 本の流通や販売の話は、写植よりも想像のつかない話だったのだ。ともかく、結論として、独りでも出版社は作れる、らしい。作った本を本屋さんに置いてもらえて、売ってもらえる、らしい。へえーえええ。なんか、すっごいですねえ。

 で、このたび二冊目の本を作るという。「絶景万物図鑑」本の内容を説明するのは結構難しい。いろんな豆知識を独自解釈して図表にまとめて俯瞰するといえばいいのか。今改めて買い直して開いたら、あまりにもマニアックというかミニコミっぽくて驚いた。これが本になってしまう時代だったのだなと、シミジミした。発売元はTBSブリタニカ。

 図鑑と銘打つだけあって、図版が各ページにあり、さらにその図版の加工も激しく凝りまくらねばならない。パソコンがなかったあの時期、コピー機が異常発達していて、松田さんの事務所のコピー機も縦横変倍はできた。しかしそれだけでは松田さんの要求を満たすことはできなかった。図版を斜めに角度をつけて変倍したり、鏡面にするために、当時渋谷区松濤にあった出版社、工作舎にお使いにやらされた。工作舎はそういう画像加工ができる超ハイグレードなコピー機があったのだ。それを使って松田さんの指定どおりにコピーをいくつもとらせてもらった。

 工作舎に行くには東京大学の駒場キャンパスのなかを通り抜ける。ちょうど通り道に体育館があって、建物の壁に「トレーニング体育館」と書いてあるはずが、トとグを誰かが取ったらしく「レーニン体育館」になっていた。東大生とレーニンの蜜月の残り香くらいは、残っていた時代だった。

 ともあれ、おかけでどんどんコピー機の扱いが上手くなり、紙詰まりくらいは簡単に直せるようになっていた。

 図版の加工だけではない。載せる図版自体を探してくることも、命じられた。タクシーを使って広尾にある都立中央図書館に出かけ、使えそうな図版を拾ってくる。

「マンガの吹き出しの元祖はどこから来たのかっていう項で使う、ヨーロッパ中世の木版みたいなので、吹き出しがついてる絵を探してきて」 などとという脳内妄想みたいなミッションを受け、複写申請した図版の受け取りを待つ間のことだった。

「手製本を楽しむ」

てせいほん?

 開架資料棚にずらりとならんだ背から、そのタイトルだけがくっきりと浮いて見え、引き寄せられるように本の上端のはなぎれに手をかけ、引き出した。

「手製本を楽しむ」栃折久美子

 自分の手で「本」を作れるってことなんだろうか。そんなバカな。本っていうのは機械が作る工業製品なのだ。現に私が今その末端の末端の末端にいて、印刷所への指示を作るための使い走りをしてるんだもの!!

 お菓子や手提げ袋を作るような要領で、ホームメイドできる「本」なんて、紙をただ束ねただけの学校文集みたいなものでしょう、どうせ。

 書架の前でぱらぱらとその本をめくった途端、それまでの思い込みが、ガラガラと音を立てて崩れた。そこに並んでいた「本」は、いわゆる普通に本屋さんで売っている、角背や丸背の上製本だったのだ。

 きっちりとボール紙の表紙と背が同じ紙や布でつながって包まれ、本を綴じてあるところも綺麗に隠されている。そんな「本」が機械なしで、手作りできると!?

 どういうこと??

 閉館時間が近づいていることを知らせる音楽とアナウンスで、はっと我に返った。やばい、バイトの途中だったんだ、私。

 あわてて本を棚に戻して、複製受け取りの場所に向かう。筆記用具や貴重品を持ったまま、棚の前でしゃがみ読みしていたので、足も手もしびれて感覚がおかしい。どれくらい読んでいたんだろう。

 申し込んだ複写コピーはとっくにできあがっていた。広尾にある都立中央図書館を出て、南青山のマツダオフィスに向かうタクシーのなかでも、頭の中は、さっき読んだ「本の作り方」で一杯ではちきれそうだった。すごい、すごい、すごい、どうしよう。

  



内澤旬子
1967年神奈川県生まれ。ルポライター、イラストレーター。11年「身体のいいなり」で講談社エッセイ賞受賞。著書に「世界屠畜紀行」「飼い喰い 三匹の豚とわたし」「捨てる女」など。現在小豆島在住。

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