舞さんの絵文字/平野甲賀
ファイル・ケースの中味をかきまわしていたら、Mai Shojiというタイトルの小冊子がでてきた。これは以前に発行していた『イワト』という劇場小冊子に表紙のイラストレーションをお願いしたことがあった庄子舞さんの画集だ。彼女は障害者である。「アトリエA」という障害のある子供たちが毎週日曜日の午前中に集まってお絵描きするグループに参加していた。
当時僕とカミさんが運営していた劇場イワトを一日中開放して、彼らと遊ぶ日を企画したことがある。壁面や床に大きな紙を広げたり、小さなステージもつくったりして、二階堂さんに歌ってもらったりした。はしゃぎ騒ぎまくる子供たちのなかで彼女は黙々と絵を描いていた。紙の切れはしやら、紙の隅っこに……。
画集は、そんな小さなカットを貼り混ぜて作られたものだった。それは着飾った友達や身近にあるさまざまなものを独特な図面のような表現で描いたものだ。そしてあるものには、カットのそばに名前とおぼしき文字も書かれている。しかし、それは読めそうで読めない謎のような、暗号のような……ものであった。そこで、ふと気になった。もしかしたら我が装丁デザインの描き文字の技もこんな風なもんなのかもしれないと……。
以前だったら僕の描き文字に「こんな字はいやだ!これじゃ読めないよ!きたならしい!デザイナー風情が勝手な真似するな!」などと、叱られたものだったが。最近はクレームはさほど聞こえなくなってきたが、もうすっかり諦められたか、老人だからハナから相手にされなくなったか、のどちらかだろう。これは単なるボヤキだよ。
そこで舞さんの絵と字をもう一度じっくりと見なおす。だいたいは真正面や真横をむいた小さなカットだが、やや大きめの人物、たぶん友達らしきものは正面を向いている。そしてその子の名前らしき、読めない漢字らしきものが添えてある。必ずしも読む必要はなさそうだが、まあ、読みたくなる。文字は読むもの、説明されて納得するもの。ところがここでは、そうした機能はあっさり無視される。ごちゃごちゃ言うのはもういやだが、つまり文字はイラストの一部分となってるわけで、舞さんの漢字は完全にイラストレーションである。
そこでいよいよ我田引水。抽象と捨象をくりかえし、永々として作り上げられた日本式象形文字を持ちあげる気は毛頭無いが、その作業を利用して我が表現を糧とし、生業とする私は、この「舞」式象形文字と国語の時間との狭間にはいりこんで、おおいに働かねばならないだろうというわけだ。
平野甲賀
1938年生まれ。装丁家。
2014年に小豆島に住まいを移した後、2019年からは高松在住。
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