起業 前編/岡村友章
父は電気工事士として自営業を営んできた。僕が思春期のころに声変わりを済ませると、電話に出た相手は「社長ですか?」とよく間違えたものだった。父の生活を見続けてきた影響があるのかどうかはともかく、僕も同じくして自営業者に転身し3年が経った。
今回は泥臭い起業のことについて書いてみたい。
大学生当時、民間企業をまわっての就職活動をしばらく続けた。やがて、企業から値踏みされているような気持ちになり、公的な仕事に就くことにした。卓越した成績がなくとも解雇されず収入を得ることができ、老後までも精神安定を保てると、そのときは思ったからだった。
大学を1年休学して試験勉強し、とある研究教育系団体の職員になった。少なくとも金銭的には安定した生活が続いたものの、慣れてきた3年目あたりから心にしこりを感じた。同じことを繰り返している。誰もリスクをとらない。(だからこそ僕はこの「安定」した仕事を選んだのに、わがままなものだ!)
僕の仕事は、憚らずに言えば替えがきく仕事だった。もちろん、そのような仕事を否定する意図はない。一方で個人としての気持ちは少しずつ暗くなっていった。民間での就職活動をやめたときとは違い、突然に白旗を上げて去ることはできない。それにこのとき、僕は既に結婚していた。家族に迷惑はかけられないと思った。
何度か開き直るよう試みたけれど、だめだった。このまま定年まで続けるのか?金銭的安定と引き換えに僕は何かを掴み損ねるのではないか?安定していると思っていたのに、だんだんと僕の心のほうは崩れそうになっていた。
夜中に目が覚めて、朝のことを思うと気持ちが塞がってしまう。眠っている妻の横でスマートフォンを起動して転職サイトを閲覧し「いったい何を考えているのだ」と諦めて、ブルーライトで乱暴に覚醒させられた頭を休ませ、鬱屈とした朝を迎える日々が続いた。
この時期に僕はお茶に興味を持ち、農家を訪ね始めた。彼らの想いと茶を紹介することが仕事にできたなら…という意識がときどき頭をかすめるようになったけれど、商売の経験など何もない自分には無理だと最初は思った。そうは言ってもその気持ちは雪だるまみたいに段々と大きくなる一方。要するに僕は、勤めから逃げたかった。
逃げるにしても、逃げ込む場所がなくては話にならない。お茶は、僕にとって逃げ込めるかもしれない場所だった。(そんなことが動機のひとつになったお茶屋です、だなんて言っていたら叱られるかもしれないけれど、それが事実だ)
やがて妻や実家の家族に、その気持ちを隠さず伝えるようになった。妻は「やめちまえ」とも「がんばって続けろ」とも言わず、いつでも淡々と聴き入ってくれた。
実家の母は、僕が「安定した仕事」を辞めてしまうのではないかと強く心配し、不安に苛まれて眠れなくなったそうだ。無理もない。母が結婚した僕の父は、決まった収入も休業日もない、自営業者だったからだ。その生活は金銭的に大きな波を伴うものだから、そのうねりの中にあっては「サラリーマンの妻」がとても羨ましく見えるのだった。「家族に迷惑をかける。どんなに大変な思いをさせることになるか」と母は繰り返し言った。
悶々とした時が流れて2015年に娘が産まれると、職場に願い出て、2016年の4月から1年間の育児休業を取得した。6月から妻は会社勤めを再開したから、日中は僕と娘の二人だけの暮らしが長く続いた。
萌える命が輝く生活。娘を通して見る世界は全てが美しいと思えた。
一方、別の輝きを見た一年にもなった。休業中、母親の体に進行した癌が見つかった。長くないと医師から告げられ、しばらくしてから自宅療養でいわゆる「緩和」に切り替えていた母は、突然こんなことを言った。
「自営、やってみたら。あなたの人生。あなたが幸せに感じることなのだったら」
その2日後、診断から2か月で母は亡くなった。火が酸素を失って少しずつ萎むようにして、最期のほんの小さな明かりをみせたあと枯れた命だった。毎日泣いて、体重が10kg落ちた。
まだ一生が始まったばかりで燃え上がるようにこの世を謳歌する小さな娘の姿が、それとは対照的に眩しく目に映って頼もしい。命の流転だった。
母は、結婚してから全てを家庭に捧げた女性だ。自らの楽しみを追求している姿をほとんど見かけたことがなく、「趣味は掃除」と行って憚らない。ようやく僕と妹が家を出ることになったので、新婚当初のように再び父と二人の楽しい生活を歩み始めたばかりだった。
癌の診断が出る少し前に母が父と京都で小旅行したときのこと。「これが最後の旅行だったら、どうする」と父に言ったそうだ。父はただの悪い冗談だと思ったようだが、母に本能的な予感があったのだろうか。本当にそうなってしまった。
癌が見つかり亡くなる少し前まで、どのような暮らしを送りたいかをしきりに僕に語るようになった。ゆっくりした田舎で身体をいたわり暮らしたい。そこで野菜を作って自然と戯れながら、日の出と共に目を覚まし、夕日を見送って眠りに就く暮らしがしたい。
報われて当然の母のそんな願いは、ほんの少しも成就しなかった。母の51年の生涯は、さあこれからというときに、思い半ばで幕を降ろすことになった。
こんな風にあっけなく終わってしまうのか。
3か月ほど考えたある日、決心がついて職場にメールを送った。辞職について会って相談がしたいと願い出ると「辞めるんじゃないかと思っていましたよ」と直属の上司は言った。職場の人々が僕を見る眼差しが刺さる。それぞれの視線の意味を汲み取ることはできなかった。
辞職願を提出し、退職金などに関する書類をいくつかやりとりする。あまりにも味気ない手続きに、今まで悩んできたものは何だったのかと拍子抜けする。退職は生涯でも数少ないビッグイベントだと自分は思っていたのに、それを処理する側からすれば、それまでに自分も多数処理してきた無機質な事務のひとつでしかなかった。
そうして右も左もない荒野に放たれた。安定という鎧をまとっていたつもりなのに、それを脱ぎ捨てたとたん、爽快な気持ちになった。いったい何から自分を守っていたのだろう。
世界を広く感じ、どこか優しい気持ちになることができた。
書類上の退職日の翌日、間髪入れずに税務署へ行った。
後編につづく
いつのまにかあなたはそのドアの前にいた 前編/岡村友章
いつのまにかあなたはそのドアの前にいた 後編 / 岡村友章
岡村友章
大阪府島本町に生まれ育ち、いっとき離れるも戻る。「にほんちゃギャラリーおかむら」主宰。茶農家に会い、ときに農作業や茶工場の仕事を一緒にしつつ、彼らから茶葉を仕入れて販売している。
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