掌編・夜間航行1 ずっと突き刺さって/小日向知子
右腕に杢がまたがり、左脇腹に拓が突き刺さっている。誰だろう、親子が「川」の字で眠るなんて表現した人は。これは「川」じゃなくて「小」だ。いや、もっと言えば「爪」だ。
ふたりの子どもに挟まれて眠る真紀は、いつもがんじがらめに固定され、寝返りも打てなかった。それどころではない。両側からの密着により、腕の置き所が見つからず、いつも何かに踏まれているか、またがれているか、それを防ぐために自らの頭の下敷きになっているのだった。腕が邪魔だなんて思うようになるなんて、想像すらしたことがなかった。でも、その腕がないと、杢を軽く羽交い絞めにして動きを止めることによって寝かしつけることができないので、やっぱり腕がなくては困ると思うのだった。拓に「ギュー」をせがまれた時にも、巻き付けなければならない。「ギュー」をしてくれるからお母さんが好きなんだ、と拓はいっていた。
いや、もうやめよう。どう思ったって、今のところ腕は体にしっかりとくっついて居続ける。わかっている、それは本当に、これ以上ないありがたいこと。それより、今夜は眠れないんだろうか。もう身体は十分にくたびれているはず。つむっていた目を開いて、頭の上の目覚まし時計を手探りで手繰り寄せて、見る。午前0時15分。
もう、布団に入って、4時間も経つ。その間真紀は、「爪」の真ん中の直線になりながら、なかなか訪れない睡魔を待っていた。
拓は4歳、杢は1歳になった。真紀は去年、後厄を終えた。後厄を終えてほっとした直後、本厄に入ったばかりの夫が、バイクの事故で帰らぬ人となった。夫は自他ともに認める誇り高き呑兵衛で、夜は大酒をくらって8時には早々就寝してしまうため、全く使い者にならならず、夜中も酩酊してふらふらで壁にぶつかったり物を壊したりするのだったが、朝は4時にはすっきり目覚めて、別人のようにシャキッと動き出し、毎朝真紀たちの朝食をつくってくれるのだった。休日となると、陽が昇る前からバイクで遠出して、海沿いの町で日の出を見、朝食をとることを最高の喜びとしていた。その喜びを報告するため、まだ眠っている真紀たちを電話で起こすこともしばしばあった。けれど、あの日そんなつもりで電話にでた真紀の耳に飛び込んできたのは、隣県の田舎の警察官の、気の毒そうな声だった。
「ご主人が事故にあわれました。峠付近で鹿とぶつかって谷に落ちたようです。傷を負った鹿がまだ居て、それを見た対向車の方がたまたま谷下を覗いてくれて通報がきたのですが......とにかく急いで病院にきていただきたいです」
ぽーんと飛んで即死だったのではないかと、医師は言った。その後のことを、真紀はほとんど覚えていない。ただただ目の前の決めなくてはならないこと、形をつけなければならないことにひとつひとつに対応し、毎日を淡々とつないできた。夫の両親は健在で、彼らなりに力を貸そうとしてくれたけれど、ことごとく意見が合わなかった。夫の大切にしていたことを巡っても、大きな食い違いが生じたが、もう本当のことは誰にもわからないのだった。そして、そういう状況になると、「わかっている」と思っているものが主権を握ろうとした。真紀はいつも、こじれるまえに身を引いてしまった。夫のことに対して、自信がないわけではない。「わかっている」と思いこんでいる者の強固な壁を突き破ることができないのを、わかっていたのだ。そんな経験が、以前から何度も繰り返されている。そして、今は可能性の低いところで、体力を使っている場合ではない。
とにかく、子どもたちとの暮らしを、落第点にならない程度にまもる、それだけで手一杯だった。真紀にとっての落第点は、子どもたちに絵本を読んであげられなくなることだった。「絵本が子育てにいいなんて、誰が言い始めたのかな。親の自己満足なだけかもって思ったりしないのかね。それを肝に銘じて、君が好きなだけ読んだらいい。俺が呑んでる間、君は読め」。拓が生まれてから、すっかり酔っ払いの相手をできなくなっていた真紀は、夫からその言葉がでてきたとき、心底ほっとした。どんな言葉よりも自分を理解してくれていると思ったし、続けていきたいことだとはっきりわかった。そして、その時間をしっかり守り続けていくことで、真紀は夫や子供たちに対して、胸をはることができていた。たまに絵本を読みながら寝落ちして、絵本が顔に落ちてくることもあったけれど。
外は強い風が吹いている。今年の春はいつまでも寒さをひきずり、桜が咲いてからも雪が降ったり、霜が降りたりした。布団もパジャマも、一向に薄くなっていかない。そうこうしているうちに、いよいよ夜の鳥が啼きだした。胸のあたりが、重くて熱い。啼き声に呼応して、虫のようなものがうごめいているようだ。聞こえるはずのないこの鳴き声の主を、真紀はもちろん見たことがなかった。けれど、こういう理屈が付かないことは、まだまだ自分の知らない明るい出来事が起きる可能性が残されている証拠のような気がして、かえってほっとするのだった。
拓の足が真紀のわき腹をもぞもぞとつつき、存在を確認してくる。足はすっかりあたたかくなって、いつものようにコロンとしている。呼吸がちょっと止まって、もぐもぐ口を動かし、ゆっくり息を全部吐くと、また規則的な寝息をたて始めた。よかった、表面まで、浮かんできていない。
真紀は、目を瞑りながら、夕方の拓の目を思い出していた。生まれて初めて見せる、行き場を探して宙を泳ぐような、戸惑いの目。眠れない原因はきっとこれだろう。まだまだ、拓には早すぎた。誰かを悪者扱いしたくなるけれど、たいていわかりやすいところに、元凶はない。どうして、あんなことになってしまったのだろう。やり場のない想いを、こねくりまわしているうちに、くたびれ果てていったん断片となってどこかへ散り、また不意に現れる。眠ろうとすると、しつこく夢以前の領域に出没し、揺さぶり起こされてしまう。
そんなうちに夜は更けてゆく。夜の鳥がもう一度啼く。風の音にかき消されそうになりながら、したたかに何度も啼く。真紀の今にも沈み込みそうな端っこに、子どもたちがしっかり突き刺さっていて、ハンモックのようにつられ、ゆらゆら揺れ続け、潔くおちることができない。まったく、命綱だ。ずっと突き刺さっていて。(続く)
小日向知子
1978年生まれ、山梨県在住。障害がある方の暮らしに関わる仕事をしています。無類のうどん好き。電子書籍『小日向知子短編集 寒の祭り』
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