チャイナのトイレから(2)/山本佳奈子
前言撤回。前回のコラムを書いてから、考えに考えたのだけれど、私は正直なところ、中国の比較的目に見えて汚いトイレを日本の多くの人たちが「汚い」と率直に言うから、あえて、「みんなが汚い言うんやったら言わんとこう」と、天邪鬼を決め込んだだけであって、たぶん、私こそが、一番中国の汚いトイレに精神的にやられているのである。
前回のコラムでも、「便秘が続くと云々」の部分があったが、中国に来ると便秘気味である。2018年になり、1月から2月にかけて、約一ヶ月ほど留学中の大学が冬休みとなったため、香港、台北、沖縄、大阪とうろうろしてきたのだけれど、日本に帰ってみると非常に便通が良くなった。
うっすら気づいていたのだが、これは、私は、日本の「きれいな」トイレがある環境に落ち着いて、リラックスして用を足すことができるからである。見た目が汚いトイレと、見た目は綺麗でも汚いかもしれないトイレと、どっちがいいか、みたいなことを前回書いたと思うのだが、そりゃ見た目汚いのは誰でも嫌でございませんか?私が中国に来て便秘気味なのは、常に「汚いトイレで用を足さなければならないこと」に億劫になっていて、これは微々たるストレスの蓄積なのであるが、立派な体の拒否反応なのである!
ただ、冬休みを終えて3月からまた福州市に戻ってきて生活すると、さすがに私も腹が据わったというか、さほどひどい便秘には悩まされていない。トイレは、汚いものなのだ。誰もが使って誰もが用を足すトイレは、どう考えても、もとから汚い。中国で公衆便所に入ると、だいたい汚い。臭いもひどいときがある。ただ穴掘っただけのトイレにもたまに出会う。でもどうしようもない。だって私は中国に住んでいるのだから。だから、自分だけが用を足しても綺麗でいようなんていうのは、傲慢な考えなのである。中国の約13億人の人たちと、同じトイレを共有してこそ、中国で生活したと言えるのである。これは前回も書いたことで正しいこと。排泄する自分、汚いトイレで排泄する自分、他人も生きており、自分も生きているのだ。
そういえば、中国では常に考えている。出かける前。
ティッシュは持ったか。もし万が一、出かけているあいだに急激に腹痛に襲われたりなんかしてトイレに駆け込まなければならないとき、十分なティッシュは持っているか。もう1パック持って行った方が安心なのではないだろうか。云々。
今日出かける場所周辺には、どのあたりにトイレがあるか。外歩きが長くなりそうであれば、公衆トイレの場所をチェックしておかないで良いだろうか。云々。(ちなみに、中国では百度地図というアプリで「公共廁所」と検索すれば近くのトイレがすべて表示される。)
トイレについて考え始めると、外出中にもよおすことや、トイレの状況などが、非常に気になってきてしまい、それやったらもう外に出ない方がいいんじゃなかろうか、と思うことさえもある。こういうときに自分は本当に頭がおかしいと思うのだ。神経質なのかもしれない。
事実、私の頭は何かを考え始めるとそれで頭がいっぱいになり、他のことを考える余裕がなくなってしまう。関西弁かもしれないが「ばっか食い」という言葉がある。一時期、ワカメにハマったらワカメばっかり食べていることがあった。(関西弁でのばっか食いとは、ご飯、おかず、ご飯、おかず、と、交互に食べるということをせずに、一皿ずつ順番に食べきってしまうような食べ方を言うはずなので、私が今書いているワカメばっかり食べる話はちょっと意味合いが違うはずなのでお間違えのないように。)ワカメサラダ、味噌汁にたっぷりワカメ。ご飯にワカメ混ぜてワカメご飯。その3品で夕食を食べてワカメに満足する、など。さらにはデザート代わりにワカメにポン酢かけてワカメを食べる、など。
そういう思考だか嗜好だかを持ってしまったがために、トイレについても考え始めるとキリがないのである。
いや、しかしさっきも書いたように、私は中国の約13億人の人たちと、トイレを共有するという中国生活に足を踏み入れているのだ。トイレに慣れなければならない。汚いトイレもへっちゃらにならなければ、自分の便秘はどんどん酷くなる一方で健康に悪い。もう潔く、トイレは外で行く。トイレに行きたくなくても公衆便所に行ってみる。そういう精神を持たなければ、私はいつまでたっても中国のトイレ生活が楽にならない。
最近の実践は、超簡単である。出かける前に、あえてトイレにいかない。さすがにトイレに行きたい状況であればトイレに行ってから外にでるが、予感として三十分後や一時間後にトイレに行きたくなりそうなのであれば家のトイレとはさよならし、未だ体験したことのない外のトイレを体験しに行くのだ。もっぱら、公衆便所の利用回数が増える。そして、トイレに行きたいと思った瞬間にトイレを探す。もう少し我慢できるかな、あと一時間は耐えられそうだな、なんて考えるのは邪道である。今、トイレを探し、今、トイレに行くのだ。
そんなトイレ実践を重ねていて、最近素晴らしいトイレにやっと出会ったのである。
ここ福州市に点在する公衆便所のステレオタイプは、白い直方体の箱型で、三部屋から四部屋ほどの個室が並んでいるもの。個室のドアは概ね道路に面しており、ドアの上には電光掲示板があり赤い文字で、日本語で言うところの「使用中」「空き」の表示がされている。
ドアを開けて中に入ると、まあもちろん公衆便所なので綺麗とは言い難いのだが、こういったトイレには常にトイレの番人をしている労働者の人がいて、人が入って出るたびに床をモップで拭いてくれていたりする。ため息が出るほどの汚いトイレは、こういう公衆便所ではお目にかかることはない。
中に入って、鍵を閉めたところからが面白いのである。ここ数年、中国からのニュースで「トイレ革命」と呼ばれるような報せがちらほらと見られる。中国でも観光客が増え続けているので、全国のトイレを綺麗にして、世界からの観光客が中国のトイレに嫌なイメージを持たないようにしなければいけない、だから、公衆便所の改修に予算をどんどん割いているという話である。
そういった中国トイレのイメージを覆すために導入されているのが、自動化と、音楽なのだ。
まず、鍵を閉めると、個室内で音楽が流れ始める。概ね音楽は、オルゴールのような優しいメロディラインとシンセサイザーのウィンドオーケストラ系の伴奏。環境音楽のような音楽が流れて、女性の声でトイレの説明が始まる。まだ全てを聞き取れるほど中国語が上達しているわけではないが、「このトイレは鍵を閉めるとセンサーが反応し、用を足して鍵を開けて出たときに自動で流れるシステムになっています。手洗い用の水道は向かって右側にあります。使用した紙は便器内ではなくそばに置いてあるゴミ箱にお捨て下さい」などなど。音楽にのって、たまに鳥の声も聞こえてくるような、リラックス空間を演出しているのだ。
このタイプのトイレで、先日、驚く個室に出会った。個室に入って鍵を閉めると、流れてきた音楽はなんと、テレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』だったのだ。イントロ──あ、これ、聴いたことある──Aメロ、”もしもあなたと 逢えずにいたら わたしは何を してたでしょうか”──これ、なんやったっけ?なんやったっけ?テレサ・テン!──そしてサビ、”とーきーのなーがーれーに身ーをまーかせー”
こうなってくると、用を足し終わっても最後まで聴いてみたい気持ちにもなったのだが、冷静になってみると、ここはトイレである。あまり長居したくない場所である。”いまはあーなたーしかあいせないー” を聴いて、出た。
その経験を経てから、似たような白い直方体の箱型公衆便所を見つけると、さほどトイレに行きたくないときでも入るようにしているのだが、テレサ・テンがかかるトイレにはそれ以降出会えていない。あれは、もしや夢だったのだろうか?いや、確かにあのオリンピック公園の傍の公衆便所は、テレサ・テンがかかっていた。だって、トイレ説明のアナウンスの声も、一通りトイレの説明が終わると「それでは音楽をお楽しみください」と言っていたのだ。
台湾出身のテレサ・テンは、まず日本語曲として1986年に『時の流れに身をまかせ』を発売し、後1987年に中国語で同曲を発売した。もちろん、台湾出身とはいえ中国でもたくさんの人に愛された曲で、いや、そもそも中国からみるとテレサ・テンは「中国の台湾省出身歌手」となってしまうのだ。
偶然に出会ってしまったテレサ・テンの流れるトイレ。中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)の関係と、さらには戦前戦後の東アジアの複雑すぎる歴史とポップス史の重なりにまで、思いを馳せてしまったトイレであった。
久々に聴いた『時の流れに身をまかせ』を口ずさみながら、公衆便所を離れて、まだ肌寒い福州の街をさらに散歩した。こういうトイレに出会えるのであれば、最近あえて水分摂取を減らしているのだが、飲みたいものを飲みたいときに飲むことも良いかもしれない。いつでもトイレに行きたいと思う口実ができたのだ。
写真:これは音楽が流れる公衆便所ではないのだが、比較的新しいタイプの公衆便所。右側の室内は、トイレ清掃する労働者の部屋になっていて、二段ベッドが置かれている。ご苦労様です。ただしこのトイレは24時間開いているわけではなく、夜23時頃に閉まる。
山本佳奈子
アジアの音楽、カルチャー、アートを取材し発信するOffshore主宰。 主に社会と交わる表現や、ノイズ音楽、即興音楽などに焦点をあて、執筆とイベント企画制作を行う。尼崎市出身、那覇市在住。
http://www.offshore-mcc.net
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