豊田市で考える、我がアイデンティティー/山本佳奈子
前回のエッセイでは沖縄移住後最大のホームシック期間であることを吐露していたが、その後、無事に1週間ほど日本本土へ脱出し、リフレッシュすることに成功した。地元である尼崎や大阪のみならず、愛知県豊田市にも赴く機会があったのだけれど、今回は豊田市での出来事を記すことにする。
音楽に携わる人たちのあいだでは、ここ数年は「豊田市」と言えば「橋の下世界音楽祭」という言葉が自動的に応答されたり頭の中に浮かんだりする。あまりメディアに取り沙汰されてる音楽祭ではないのだけれど、とにかく行って経験してきた人からの評判が格段に良い。私はまだその音楽祭を体験したことがない。どんな感じで素晴らしいのか言葉による説明を求めたりするのだけれど、「良いからとにかく行ってみんさい」というような返事を返されることがほとんどだ。
それでもなんとかSNSやwebサイト、行った人の現地で撮った写真を調べてみて理解したこの音楽祭のようすはこんな様相である。立派な高架橋の下のだだっ広い河川敷にステージが組まれていて、あらゆる看板や横断幕の文字はコテコテの寄席文字フォント。竹を素材につくったと思われる櫓やブースが立っていたり、江戸時代の人々のような格好をしたたくさんの人たちが楽しそうにワイワイしている……。入場料は無料だが投げ銭制で、必要電力は太陽光発電でまかない、最小限のインフラで開催されているようだが写真や動画から伝わる熱気は異様なほど。いわゆる現代的な音楽フェスティバルとはちょっと違って、祝祭やお祭りという言葉の方が似合うような雰囲気だ。ただ、強烈な和モノのイメージに、実はあまり興味を持てなかったのが最初の印象である。私は、結局のところ、中高生時代から洋楽に親しみ、西洋文化を自分のなかに染み込ませてきた。
この音楽祭の首謀者である永山愛樹(ながやま・よしき)さんという人は、TURTLE ISLANDというバンドのリーダーでもあり、豊田市出身豊田市在住。沖縄にも年に2、3度訪れてライブをする。何度かご挨拶はさせていただいていたのだけれど、あまり深く話す機会がなかった。しかし今年の始め、私が配給していた韓国ドキュメンタリー映画『パーティー51』を豊田市でも上映したい、と愛樹さんが意思表明してくれて、共通の知人を介して豊田上映を実現させるということになった。せっかく上映するなら、と、私も豊田市に行ってみることにして、愛樹さんと上映後にトークも行ったのだった。
上映会およびトークには、橋の下世界音楽祭に関わる人たちも来てくれて、終了後、ごく自然にそのまま会場で飲み会が行われた。会場は橋ノ下舎という普通の民家を改装したような空間で、橋の下世界音楽祭に関わる人たちが運営する公民館のような場所。普段はミーティングに使われたり、小さなワークショップが繰り広げられたり、今回のように小さな自主上映会が開催されたりもする。飲み会はとてもやわらかな笑いとあたたかさに包まれていた。気兼ねすることなくリラックスできたのは、畳の空間だったことも影響しているかもしれない。また、TURTLE ISLANDはパンクバンドであるし、周辺の人たちにもパンクスが多いという印象だったので、こわい人達だったらどうしようかとも思っていたのだけれど、まったくの正反対。みなさんとても優しくて寛大で、自分の器の小ささを感じた。
トークにて、やっとお互いの自己紹介も踏まえながら会話をした愛樹さんはおしゃべりが大好きなようで、トークに引き続きいろんな話をしてくれた。愛樹さんが少年期に見た豊田市の風景。橋の下世界音楽祭での出来事。豊田市のパンクスの先輩たちのこと。全国津々浦々日常的に駆け巡るツアー中に経験したことなど。愛樹さんは実際に自分が見たり聞いたりしたことを脚色つけずに話す。言葉のボキャブラリは多くはないけれども、なぜか自分もその場に居合わせたような感覚がしてくる。話から映像が見えてくるような体験だった。たまに言葉を間違えたりするので仲間たちにツッコまれ、それを笑いながら「ごめん俺バカだからさあ」と、シリアスな話であってもあたたかな笑いに包み込んでいく。また、橋の下世界音楽祭がなぜ始まったのかも話してくれた。そういった会話のなかで、愛樹さんの原動力となっているのは小さな疑問と、変わるかもしれないという小さな希望の2つなんだということがわかってきた。
愛樹さんの話した言葉で特に真剣に受け止めざるを得なかったのは、「なんでも行政のせいにするんじゃなくて、自分たちでやれることをやろうよ」という、いわば自治とも言えるような考えだった。フクシマ以降、確かに私たちはすぐに国や政府や地方自治体や議員、公務員にすべての罪を押し付けているのかもしれない。この発展しすぎた過剰な社会を望まずとも導いたのは、一市民である私たちひとりひとりであると、確かに言えるだろう。橋の下世界音楽祭は、一時的に橋の下に出現する村のようなものであるという。たった3日間出現するその村には管理を担う者と訪れる者のヒエラルキーのような関係性は存在せず、村に訪れた参加者や関係者が自主的に行動し節度をもって各々で楽しむことによって作り上げられていく。一種のヒッピーコミューンのようにも聞こえるかもしれないが、それが愛や平和を押し出すものではなく「管理されない個人の力でどこまで出来るのか」を試している村であるから性質が違う。ある種社会実験のようなものかもしれない。印象的だったエピソードがある。3日間深夜まで繰り広げられる音楽祭では、深夜にはトイレがひどく汚れているそうなのだが、どうやら早朝に勝手に掃除する部隊が現れて、翌日の始まりにはとてもきれいなトイレに戻っているとのこと。そしてそのトイレ掃除部隊が誰なのか、愛樹さんや実行委員会は把握しておらず、おそらくお客さんの一部が誰にも指示されたわけでもなく勝手にやっているらしい。さらに愛樹さんは、「自分たちで出来ないことなんて、行政にも出来ないよ。だからまずは変わるのは自分たち」と言う。
そんな愛樹さんの考えは、まっすぐに筋が通っていて、音楽性に対しても現れている。イギリスやUSのパンクに憧れて音楽を始めた愛樹さんだったが、どうもアジア人である自分が欧米人の真似事をすることに抵抗を感じるようになってきたという。パンクスの思想はそのままに、アジアなりのパンクを表現しているのが確かにTURTLE ISLANDの音楽であるし、当初私が興味を抱けなかったのもそこなのだ。私は聴き慣れた8ビートのリズムがパンク音楽であると思い込んでいたが、そういえば、私も似たような抵抗を感じたことがある。アジアの音楽を深く掘れば掘るほど、どうして私たちアジア人が欧米人のビートやグルーヴまでをも習得しなければいけないのか、と疑問に思う。パンク音楽だって、確かにそうだ。大事なのは音の構成要素ではなくて、事実自分からどういった音楽性が自然に出てくるか、というところのはずだ。
音楽以外においても、この音楽祭に全面的に和モノのイメージが使われているのは、西洋文化の模倣ではなく本来自分たちが持っていたはずの文化を少しずつ思い出していこうという行動でもあるのだろう。日本における一般的な音楽フェスティバルは、舞台装飾や会場構成はそのまま欧米から輸入されたものと言える。また、昨今あらゆる飲食店やアパレル店、そして街で目にするフォントやデザインの骨格。欧文フォントに合わせるために組まれたデザインも多いのかもしれない。自分の場合においても、イベントチラシを作る際、欧文フォントに合わせるために横文字のイベントタイトルを採用したことが、過去何度あっただろうか?
小さな疑問が出てきたら、まずはそこについて深く考える。考えて、自分なりの結論が出たら、少しずつ変わってみる。果てしなく時間のかかることであるが、結局はひとりひとりがそのプロセスを積み重ねていくことでしか、社会や環境なんて変わっていかないだろう。ちょうど愛樹さんとのトークでも出た話だったのだが、過去に学べば中国の文化大革命など、誰かが実権を握って起こした改革や変革なんて必ず亀裂が走る。カリスマをつくるのではなく、自分の思ったことを実践するだけ、そしてそれをまずは一番近くにいるひとたちと共有し、各々思うように行動していくだけ。至極シンプルでゆるやかな市民ベースの主体性に出会うことができ、実り多い旅だった。豊田市のみなさんとの別れ際の挨拶は、もちろん、「じゃあ、次は今年の橋の下世界音楽祭で!」だった。
▲ 上映会が行われた豊田市「橋の下舎」。
山本佳奈子
アジアの音楽、カルチャー、アートを取材し発信するOffshore主宰。 主に社会と交わる表現や、ノイズ音楽、即興音楽などに焦点をあて、執筆とイベント企画制作を行う。尼崎市出身、那覇市在住。
http://www.offshore-mcc.net
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