平野甲賀 描文字展 小豆島から台湾へ 京都へ 東京へ

 書籍にしろ広告宣伝物にしろ、文字のないものは、まずない。筆舌に尽くし難い、とはいうものの結局のところ、美辞麗句をもって讃えられれば、それに越したことはない。そこで私の仕事は、まず文字を描くことからはじまる。

 文字は、その言葉にふさわしい姿形を見せてくれる。とくに象形文字である日本語は、じつに洒落た仕掛けに小さな部品を散りばめて、文字一つ一つがさまざまな物語を語りだす。喜び、怒り、悩み、悲しみ、その姿は美しくもあれば意地悪で批判的でもる。つまり、これはたいへん厄介な道具ではなかろうか。

 そこでまず、長年PCの中に捨てきれずに溜まったまゝでいる仕事の断片を掻きわけて、手を加え化粧を直して再登場させることにした。執念深いようだが、これはPCならでは出来ぬ作業なのだ。二十数年前の仕事が全く未熟なままに蘇ってきて、それに耐えることでもあった。思わず「うっ」とくるような不出来なものから、なんと珍奇で面妖な形を思いついたものだと感心もする。しかし、その時の言葉や文字の表現の拙さは、それなりに理あってのことだし、仕方がなかったのだと納得するしかないことでもある。

 まずPCホルダーのなかから「甲賀の仕事」を選び、随分いろいろやってきたもんだと……、しかし、仕事量のわりになぜこうも貧乏なんだろうと余計なことまで考えながら、しげしげとファイルを開き点検し、こりゃ駄目だ。これらの総和が自分自身であるわけだから、と当然ながら傷つき、反省し……。さらに「イワト」(以前運営にかかわっていた劇場)というファイルを見つけ、開くや、わーっと出てきた。小粒ながらもキッチリ演題を背負った貧乏神どもである。しかし、そのファイルの片隅にひっそりと燦然と輝く「冬の旅」。これにポインターは引き寄せられ、おもわずクリックする。

 フランツ・シューベルトの曲にウイルヘルム・ミュラーの詩。斎藤晴彦の歌に高橋悠治のピアノ。日本語で歌う……なぜこんなに暗いの?「冬の旅」そのチラシ。訳詩は高橋悠治、斎藤晴彦、平野甲賀、田川律、山元清多、という面々がある日、喫茶店に集まり、それぞれの担当を決めた。たぶん二〇〇五年の春のことだったと思う。というのは、ついでに作ったCDの収録日から類推。それはそれとして、このコンサートは好評につき全国各方面で数回出張コンサートを行った。もしかしたら聴かれた方もいたりするかも。

 この楽曲には、かの有名な泉に沿いて繁る「菩提樹」も、もちろんある。でも斎藤は菩提樹といえば「おしゃか様だよ その木の下で 死んでいったよ」……と唄う。この伝で、ほかにも訳詩は少しづつ改竄されて、春を夢見て旅する人の「冬の旅」は全二十四曲で完結する。

 たぶん曲にはまったくかわりはないのだろうが、唄は世に連れ、どんどん替わり替わるもの。ミュラーさんごめんなさいね。というわけで、文字、字形もどんどん変わるもの、いや変えねばならぬものであろう。きっちりとした「冬の旅」でも厳冬もあれば暖冬もある。

 ある日、私が小豆島移住計画について、斎藤晴彦と話していたら「四国九州、夏の旅っていうのもありですな、全員アロハで、悠治さんキッと似合うと思う」「するてえとアンコール曲は「憧れのハワイ航路」ですかね」と、うれしそうに笑っていた晴さん。もういない。

 描文字が専売特許でもあるかのような仕事ぶりで、写真やイラストレーションなどとのコラボよりも、むしろ絵画的要素のつよい日本語を主題に選んだことを、今までにも縷々述べたとうりで、四二〇ミリ×四九〇ミリの一定の寸法で七二点にしぼって展示できないだろうかと思ったのだ。しかしなぜ、いきなり台湾なのか。瀬戸内小豆島は夏になると若い観光客が、どっと増える。瀬戸内国際芸術祭なるものが開かれることもあり、台湾・韓国からからも若いひとたちが来る。来るんなら、こちらからも出かけてみようかと単純におもった。

 二〇一六年六月下旬、一本のメールが入った。韓国PaTlデザイン大学の学生で、アン・サンス氏のクラスの学生だという。研究室で見た日本の一九七〇年代のアングラ演劇のポスターに大いに刺激を受けたという。それは当然だろう。それは日本国のデザイン界でも大事件だったのではないか。唐十郎の状況劇場(赤テント)、寺山修司の地下演劇、六月劇場+自由劇場の黒テントなどが間を置かずに興行を張る。大雑把にいえば、状況劇場は横尾忠則。地下演劇は宇野あきら。黒テント劇場は平野甲賀。といった面々が競い合うように宣伝を担当した。採算度外視で、B全判のシルクスクリーンのポスターを壁面劇場などと称し、誰云うともなく「ポスターは劇団の旗だ」という合い言葉まで生まれた。グラフィック・デザイン界のみならず、演劇界にとってもエポックメイキングな出来事だったのだ。と、わが家を訪れたパク・ドファン君に、いささか自慢げに語った数日後に、今度は台湾の若い人たちが大挙してやってきた。瀬戸内の大芸術鑑賞のついでに我がアトリエにも立ち寄ったということらしい。遠来の若人のために数点の描き文字作品のプリントを壁に貼っておいた。なにごとか囁き合っているなかの一人がこれ「劇場」ですよね?「え、そう、読めるんだね」なかでも判読不能かと思われた文字を難なく理解してくれた。そうなんだよ、台湾は漢字の国なんだよね。こんなに図案化した奇怪な文字もあっさり読んでしまう。

 高松港の近く、「北浜alley」という倉庫街のなかでブックマルテという書店を運営する小笠原哲也さんに話をもちかけてみた。彼は台中市に同様のスペースを立ち上げる計画があるというのだ。さきほど大挙して現れた台湾連も彼の手配になるものだったのか。

 じつは私も文字・装丁に関する本を数冊、出版している。そのなかから台湾語に翻訳されているものがある。みすず書房から出版された『僕の描き文字』が台湾語で『我的手繪字』という書名で,王志弘さんというデザイナーの装丁で出版された。「手繪字」する場合「僕の」と「我的」とでは、すこしニュアンスが違う、「僕の」とやや甘ったれた言いかたが「我的」と頑張られたことに、いささか緊張を強いられるが、しかし、文字する、という作業はどうであろうと面白いことに違いはないのだ。日本式我的甲賀流象形文字は台湾の人々は、どう見るのだろうか。

台湾へ

 京都ddd展に間にあわせて、展示カタログと電子画集をつくろうという話になった。画集といっても、あいかわらず、いままでに描いてきた文字のタイトル・デザインのくり返しであり、文字といっても文章を書くのではなくて、文字を描くことに集中したもの。だから画集というわけなんだ。

 私が少年の頃には、この手の図案集が正月や夏休みの直前になると書店の青少年コーナーに並んだものだが、最近はとんと見かけなくなった。たぶん素材集CDなどと姿をかえて収録されてしまっているのかな……。

 ところが辻克己著『現代図案文字大集成』(昭和九年発行)の新装復刻版が文庫本の体裁で出版されることになった。いやぁ、懐かしいかな。そこにはデジタル技術の発達した今からすれば、はるかに豊かな人情味あふれる世界が展開するはずだ。月並みな、梅に鶯、鯉の滝登りといった縁起物の文字ばかりじゃない。しかし、なぜ今この画集が眼前に?、頁をめくると平野甲賀の、やゝ大げさな序文があり、奥付にば、この本全体のデザインを仕組んだ大原大次郎君の名があるではないか。

 それにしても、この時期のお手本画集を見て思うのだが、なにげない書体でもどうしてこんなにうまいんだ。はたして修行の差か才能か、庶民の審美眼の?たしかにそれはある。だがもっと別物、たとえばマウスよりは筆。モニター画面より和紙。だったらこの別物を取払い、理屈抜きで白紙に直に挑めばいいのか……。いやいや、そうはいかない、気がつけば世の中は急速に驚くべき変化を遂げているのだった。

 たとえばこんな文言を描いてくれと注文を受けたとする。するとスケッチブックをひらいて、文字のデッサンをはじめながら、さぁここからが本番の作業。その鉛筆描きのデッサンをスキャナーで取り込みモニター画面上でイラストレータを使い、幾度かの試行錯誤の末、一辺の詞の状態にまで組んでみる。仮名など脇役的な文字とのバランスを計りながら……。そこで、じつはこの脇役こそが批評的な部分であり、文言全体の色合いをも決めかねないと気がつく。近頃では、この脇役の存在を押さえ込んで、妙な造語めいた舌ったらずな表現が増えてきたような気もするが、脇役あっての主役、これが一番の面白さなのにと、つくずく思うのだ……。もちろん、写真、イラストレーション、あるいは模様、などを散りばめることも出来なくはないが、まず象形文字である日本語力を、じっくり味わって、文言の意味というか趣向に想いをはせる。そして言葉の質感と意味深さ、文字のあるべき姿に悲喜こもごも……。

 3月29日、高松発のチャイナエアで台北桃園空港着。ホテルまでのタクシーの道中はかなり長い。だが町中へ入り交差点にさしかゝると退屈は一気にふきとぶ。混雑する車のすき間に驚くほどの数のスクーターがわりこんでくる、信号の変わるのを待ちかねて、一斉に飛び出す騒音は凄い。しかし、一頃の東京でよく耳にしたピラピラした警笛音はない。とにかく先を急ぐ者たち、しかも、女性たちも結構多いのだ。夕闇せまる、台北ダンデイホテル着、ここで全員集合。部屋の窓から見える街並みがなんとなく東京は神田、神保町の古本屋街の風景をおもわせて、ほっと一息つく。

 3月30・31日、高鉄桃園駅、台中市へ、展示設営のため。裏道りへ迷い込んだのかと思いきや、ポスター発見。チラシをやゝ改竄した立て看板だ。この会場は市が非開発地域に指定した一画にあり、おそらく真っ当なデザイナーなら展示を拒否しそうなボロさだが、さんざん東京でアングラ演劇やさまざま催事を経験してきたものには、かえってこのボロさは好都合、なんの気兼ねもなく、水平垂直さえまもっていれば、それで充分だ。

 「ずいぶん(観客が)並んじゃったんで、オープンします」ええっ!。サインお願いしますと『我的手繪字』を手にした若い人たちでこの狭い画廊はたちまち一杯。しかし、この本の出版社は台湾なんだ。日台友好のためなら、仕方ないよね。

 オープニングで唄ってくれることになっている古川麦君もギターを背負って到着。会場で巧みに中国語を喋っていた初老の男性と、女性を紹介してくれた。「父と、母です」。バク君から父は台湾に住んでいると聞いていたけど、「母も来たい、と云うんです」。なんとなく事情は察していたけど……。とてもうれしいことじゃないか、その後どうなったの?。

 閉館寸前、ひとりの若い女性が「これさしあげます」と一冊の古本をくれた。表紙に「國語日報字典」とあり中華民国六十五年五月第一版と、奥付に書いてある。序文はもちろん漢字だらけ、だが、そこにはルビと思しきものが付ってある。しかしこれも判読不能。これは「これは相当古いものです」とバク父さんが教えてくれたけど、頭に入らなかった。辞書の体裁は日本の学習漢和事典とさほど変わらないようだが目を凝らして見ても、読めない、台湾語ルビの存在なんか、あることも知らなかったというわけだ。

 バクのソロライブは近所の書店です。そこはつい最近できた、喫茶と書店が一緒になった小さなスペース。演目は室生犀星の「故郷は遠きありて…」トラさん風。オーヤン・フィフィの「??…」。宮沢賢治と谷川俊太郎と武満徹の「星めぐりのうた」これは泣ける。など眈々と唄ってくれた。かえり道、娘の丹と極辛の麺を食べてホテルへ帰る。

 4月1・2日.再び台中へ。台日ブックフェア。会場は旧日本軍タバコ工場跡。レンガ創りのしっかりした建物が点々と、広々とした敷地に立っている。ここも保存地区。なかにはいち早く書店・喫茶・レストランなどをオープンさせているとこもあったが、レンガと古物の椅子テーブルが案配よく配置され、中二階もあったり、つまり天井高もじゅうぶんで、ついここで劇場をつくりたいなどと腕を組む。

 きょうは二時間ほど、インタヴューを受けることになっていた。TYPOGRAPHY02の編集部の葉忠宜さんと台湾本ネット販売会社OKAPIの詹慕如さんが通訳。テーマは前日にメールで送ると云われて……、まず、文字をポスターなどの中心に据える理由は? デザイン=匿名性=機能性をどう考えるか? 書体デザインの表現と表情との関係は? など。だいたいこの三つの質問に、うまく答えることができればよさそうだ。

 第一に、文字は名付けたり説明したりする大切な道具である、だから第二の、匿名性のたかいデザインが正しく(?)中央に据えて公平な伝達機能を発揮し、第三の、わざわざ余計な感情表現で誤解をまねく必要はないだろう。と云いたいわけだ。しかし、堂々と大書された文字が、言いたいことのすべてであったり、さらにそこに、色をほどこし、奇抜な形態表現をまとって、耳目を集めたとしても、充分に納得させるとは思えないよね。だからといって、それを否定も肯定もできない。それは受け止める側の感性と気分次第であって,時と場合によっては思わぬ反応に、自身びっくりすることもある。だから、無難な匿名性こそがデザインの真髄だなどとはいいたくない。充分な余白をもった白紙の中央に端麗な書体をもって正解が描かれたとしても、それだけのこと、それがグッドデザインとは云い難いし、美しいとも思えない。と、つい訳けも解らず反抗的な態度が露になったのが、今回のいや、何時もの態度、いや私の作品なのだろう。

 4月3日、逸雄君とヒトミちゃんが老体を迎えにきてくれて、タイガーエアで日本国・岡山空港へ。タクシーで新岡山港へ。途中大きな川沿いを南下し両岸の桜並木は満開で、美しいのだが、なにか物足りない。気がついた、並走するスクーターの騒音は全くなく、港もフェリーも人影はまばらで閑散とし休業中?そのもの、異次元に足を踏み込んだような、まもなく到着する小豆島の眈々とした日常生活が思いやられるような。

4月21・22日、さらに旅、京都へ。

 今回は逸雄さんの大型車に乗りっぱなしで。京都太秦にあるdddギャラリーへ、スペース下見に甲賀、公子、逸雄の三人旅。このスペース、ざっと見たとこ八十点ぐらいなら一段掛けでも充分に収まりそうな壁面。中央にあいたところに晶文社の本を展示するとして、いったい、これが幾册になるのやら、いまのところ不明、ちょっと不安だが面白く見せることは出来るだろうと高をくくる。

 せっかく京都へおいでになるんならトークショウを開いていただけませんかと声がかかった。恵文社・一乗寺店の裏に手頃なスペースがあります、お相手は、精華大学デザイン科の教授、鳥海修先生でいかがでしょう。丁度、晶文社の斎藤編集長もおいでくださるそうで、はいはい。この書店にはずっと以前にきたことがあった。その時は可愛らしいお店だなという印象だった。それがこの度は、ビール片手に鳥海先生が文字について語るに、相応しい雰囲気になっているではないか。

 鳥さんとは、これまで、真面目に「文字」のことについて語り合ったことはなかったように思う。 鳥海さんは「字遊工房」の社長であり、大学教授であり、つい先頃「文字を語る」という本まで晶文社から出した。ちょうどその寸前に私も「きょうかたるきのうのこと」というわけのわからぬ本を出したばかりで、装丁は鳥海本も私、敵に塩を送ったかたちになった。先に刀をぬいたのは私、おもむろに抜きあわせたのは鳥海。

 鳥海さんは、その名の通り、山形県は鳥海山のふもとで生まれ、多摩美術大学卒業後、(私はムサ美)写研に入り書体設計士となった正統派。彼は同郷出身の作家藤沢周平をこよなく愛し、藤沢周平の小説を組めるようなフォントを開発したいと、常々地道な努力をおしまないひと。かたや、こうした状況では、つねに捨身なひとに変身する私。

 さて、今夜のお宿は大阪、十三のホテル街。運転担当で一滴も呑めない逸雄君には申し訳ないと思いつつ、なぜ大阪?晶文社の草創期のことを知りたいというジャーナリスト、武田徹さんのインタビューを受ける約束になっていた。どうして晶文社で仕事をするようになったのか? サイマーク決定のいきさつ。編集部の顔ぶれ、行状。僕に出来るのは適当な裏話ばかりだが、うまくまとめてください。

 姫路港から小豆島福田港へ。今回の大移動はこれにて終了することになったと思ったら、来客、ちょこっと顔をみせにくる人。そうだ台中からも沢山、情報が入っていた、写真によると、あの小さな画廊に若い観客で満員状態。一番人気は「般若心経」。指差し確認で読み上げている女性が写っている。また、そのうちの一枚には皆んな床にべたりと座りこんで、片方の目を覆い作品を見ている不思議な写真があった、もしかしたら、このデザイナーは隻眼だということに気付いてしまったのではないだろうか?。最後になってしまったが、台中緑光ブックマルテの責任者、木村一心君ほんとうに、ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。しかし、この春のなんと忙しいこと。





平野甲賀
1938年生まれ。装丁家。
2014年に小豆島に住まいを移した後、2019年からは高松在住。

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