でこぼこデイズ! - 2 - 春は魔物 - / 小日向知子
毎朝5時半に、アップルウォッチの振動で目が覚める。カーテンの向こうがうっすら明るい。スリッパを履き寝室を出て、リビングを突っ切り和室へ。ラジオをつけ、昨日の洗濯物を取り込みながら、保育園の準備。洗濯機から洗濯物を取り出して、ぱっぱと干す。服を着替え、軽く顔を整え、さぁお楽しみ、連絡帳を書くぞ!っと思ってリビングに行くと、あっ暖房をつけ忘れている。「ピ!」今日は寒くなかったからなぁ。「どたどたどた」廊下を走ってこっちへくる音。「え?」まだ連絡帳を書いていないのに、こどもたちが自動的に起きてきた。「おかあさん、おみずのみたい。ふとんがあつかった。」「え、あつかったの?」季節はどんどん変わろうとしている。カーテンをあけると、すでにさわやかな日差し。「くしょん!」鼻がむずむずする。まったくもう。でも、このくらいの光って、不思議と少し、希望が持てるような気分になるんだな。そうか、春がやってきたんだ、春。あぁ、春がむくむくと、泡のように膨らんできている。
悠長な2歳と5歳を担ぎこむようにして保育園に預けると、大急ぎで職場に向かう。私の職場は「障がい者施設」や「生活介護事業所」と呼ばれている場所。さて、この言葉で具体的なイメージが沸く方はどのくらいいるだろう。ざっくばらんに説明すると、比較的重度の障がいを持つ方が過ごす「居場所」であり、15名ほどの利用者さんと10名ほどのスタッフが在籍している。仕事をしてお金を稼いだり、何かを訓練して向上させていくことを目的としていない。毎日、利用者の皆さんが健康に安心安全に、「過ごす」「居る」「在る」という場所。ひとりひとり、希望すること、目標とすること、実現したいことは違う。毎日、みんなで考えながら共存し、時を分かち合っていく。
場所は廃校になった小学校の1階をお借りしている。2階には小さなギャラリーや市民団体の活動拠点、週に2日だけ開校するフリースクールがあり、人の出入りが多い。それに、広々とした校庭もあって、桜をはじめたくさん木々が歴史を経て植わっている。この環境はなかなか気に入っている。
極寒の冬が少しずつあとずさりし、固く縮こまっていた身体が緩み、ほっとしてきたのもつかの間。例年より派手に「春一番」が吹いたころから、なんとなく誰もがそわそわしてきた。いわゆる「季節の変わり目」に突入したようだ。「季節の変わり目」は4回あるはずだけど、春と秋のそれは劇的な感じがする。疾病的な範疇に突入した方はもちろん速やかに受診するが、それ未満であっても、ほとんどの人が何かちょっと変調をきたす。アンテナの受信が狂ったり、身体の節々が暴走したり、おへそが曲がったり、張り詰めすぎた糸がピーンとはじけたりする。そこらここらで、何かが起きるたび、「春だから」という言葉がささやかれる。それはもちろん、利用者さんもスタッフも一緒だ。ある程度コントロールし、残りは諦める。無理やり封じ込めれば、また別のどこかが飛び出るだけ。みんなは言葉にしないまでも、そんな風に思っている空気を感じる。「春は魔物だから。自分でなんとかできるなんて思わないほうがいい」。就職一年目にお世話になった上司が、お酒の席でそう繰り返していたことを、今でもよく覚えている。
午前中はそれぞれが、自然農園のたまごをパックに詰めたり、おやつをつくったり、掃除をしたり、紙をおったり、点字を打ったりして過ごした。お昼ご飯を食べて、ストーブであたたまってうとうとしたいような時間帯に、急に空が暗くなったと思った途端、強い風が吹きだした。「ところによっては、一時的に天気が大荒れとなり、雷雨や突風が見られる場合があります。お出かけの際は、ご注意ください」。一瞬でテレビやラジオの内容を覚えてしまうYくんが、アナウンサー顔負けのいい声で、今朝のニュースを反復していた。「まさか、雷が鳴ったりしないよね」。さっきまで若いスタッフをからかっていた70歳の重鎮Kさんが、さっと顔を曇らせ、背中を丸めて暗い声でつぶやいた。窓の外を、段ボールが枯葉のような物をまといながら、横っ飛びしていった。
「だいじょぶ、だいじょうぶ。天気予報じゃ午後も晴れだって言っていたから」。私は、天気予報を見ていなかったけれど、願いをこめてそう言った。即座にスマホで天気予報を調べたスタッフも「うん、午後からも晴れだね。心配ないよ」とみんなに向かって言った。そして、私のほうを向いて、低く小さい声で「だいぶ急に気温が上がるよ。午後から今日、何するんだっけ? 絵本と歌と手遊びか。だいじょぶかな」とつぶやいた。
15分ほど強い風が吹き狂った後パタッと止んで、空気が緩んだ。まもなく日差しが戻り、予報通り気温がぐんぐん上がってきた。「よかったね、晴れてきて」。そんな言葉が飛び交った直後、Sさんが、音もなく崩れるように床に倒れこみ、てんかん発作を起こして震え始めた。スタッフは急いで駆け付け、安全を確認し、時計をみて発作の長さを測る。まわりにいる利用者さんは慣れたもので、そっと気配を消し、何も言わずその姿を見守っている。5分ほどで発作が収まると、Sさんの意識の回復と同じようなスピードで、周りの音や動きが戻ってくる。倒れる前の時間と繋がるように、利用者さん同士の会話や午後の活動への準備は流れ始めるけれど、さっきまで甲高い声で陽気に冗談ばかり言っていたKくんは、さっと席を立って奥の部屋に行き、ひとりで机の前に座って足を組んで、なにやらぶつぶつ言いだした。
「急に気圧が上がるような時が、下がるよりも怖いんだよね。パーンって来るから。気をつけてよ、あっちの部屋」。警察を定年退職してからこの職場に加わったスタッフが、私の背中からぼそっと言う。いまだ誰かの発作の度に少なからず動揺してしまう私に、この言葉は普段の何倍も突き刺さった。言葉にならず、うんうんうんうんと相槌を打って、机の角に太ももをぶつけながら本棚へ向かい、絵本の時間の準備を始める。さっきまで読もうとしていた妖怪が出てくる絵本をやめて、季節感のある明るいのどかな絵本に差し替えた。
結局、Kくんは、午後のプログラムに参加しなかった。同じように参加しなかったMちゃんの隣で、先日退職したスタッフの口真似をして、おせっかいを焼き続けた。「なんでMちゃん絵本行かないの?ほら、行くよ。面白いんだから。本当は参加したいんでしょ、ほら、いきますよ、ハイっ立ちます~」。Mちゃんは聞いているのだろうけど、まったく動じない。
Mちゃんが読み聞かせに参加しないのも、珍しいことだった。参加しない代わりに、本棚から花の図鑑を持ってきて、春のページをめくり、梅の花ばかりを大小様々な色で猛烈に描き続けていた。赤、ピンク、オレンジ、青。太いマジックのはっきりした線で、儚さとかはまったくなくて、少し厚かましいぐらいのインパクトがある梅が、ごてごてと画用紙の上に散らばっている。まさに乱れ咲きで、なぜか少し、エロチックな雰囲気すらあった。ところどころに、「Mちゃん書体」とでも名付けたいデザインされた斬新な文字で「サンダー!!!」とちりばめられ、さらに謎は深まった。
隣の部屋では読み聞かせが終わり、みんなで春の歌を歌い出していた。「あかりをつけましょ ぼんぼりに~」。Mちゃんは歌をちゃんと聴いていて、一緒に高い声でくちずさみながら、どんどんマジックを走らせていく。もう、どうにも止まらない。このまま、ふとした拍子にむくりと立ち上がって、校庭に駆け出してしまいそうな、気迫がある。もう、パンパンだ。
Kくんは、いよいよ、その場にいられなくなってしまった。「春なんてきらいだ。女の人のお祭り」とぼそっとつぶやき、ふくれっ面して部屋を去っていった。私は、Kくんに見つからないように、隠れながら後を追いかけていった。K君は長い廊下を歩き、体育館にたどり着くと、舞台に上がって、舞台そでにある古いピアノで、童謡を弾き始めた。舞台袖は暗く、K君の姿は見えず、くぐもったピアノの音だけが、人気のない体育館に響き渡る。その音色は、いつもと同じように、途中で1拍多かったり和音がずれたりしていた。けれど、いつもと同じように、ほんとうによかった。
童謡が4曲目に入り、3時になったところで、私はおやつを準備するため、体育館を後にした。
小日向知子
1978年生まれ、山梨県在住。障害がある方の暮らしに関わる仕事をしています。無類のうどん好き。電子書籍『小日向知子短編集 寒の祭り』
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