森國酒造 池田翠さん

小豆島の酒蔵である森國酒造。隣接しているカフェは元々佃煮を製造していた蔵をリノベーションしたものです。酒粕を再利用したカフェのメニューを考案調理しているのが池田翠(いけだみどり)さん、80歳。娘さん二人とカフェのスタッフからは “おばあちゃん” と呼ばれています。森國酒造は平成17年の開業ですが、その前身は明治時代から栗林公園前(高松市)にあった池田酒蔵です。つまり高松から小豆島へ酒蔵ごと移動してきたわけで、そこにはたくさんのご苦労があったことだと思われます。

— 今日はお時間いただきありがとうございます。お名前とお歳から教えていただけますか。

池田翠です。おじいさんが漢文の先生だったらしくて昔にしては変わった名前が付いているんです。昭和11年(1936年)生まれで、もう80歳です。

— 翠さんはもともと高松のお生まれなんですか。

いいえ、私の実家は今のまんのう町(香川県仲多度郡)になるんです。中学を出て後、社会勉強のためにと高校は寮がある善通寺の学校に入りました。

— まんのう町!日本一大きいため池の満濃池があるところですよね。お年頃までそこだったのですか。高校に行かれたのが戦争が終わった頃ですよね。そんな時に寮のある学校があったんですね。

そうなんです。私が入学するときにはもう男女共学になっていたんですが元々は女子高校で、女子の寮だけはまだ敷地内にあったんです。

— それで、そこを卒業されてまんのう町に戻られたんですか。

いえ。その後、編物手芸学院に入ったんです。そこにもちょうど寮があるということで、少しは人様のごはんを食べてきなさいと...。

— お父様がそういう方針でらしたんですね。進歩的なご家庭だったんですね。

だから、娘達も同じ様に育ててしまったんです。

— それで、そうか、よく働く娘さんたちです。編物手芸学院を出てから働きに出たんですか?

いえ、池田(ご主人)とお見合いをしたんです。ご縁があったんですかねぇ、池田と結婚することになって。結婚してすぐお酒の工場の留守番役で入りました。

— その酒蔵会社が「池田酒蔵」ですね。そこは善通寺市だったんですか。

いえ、場所は高松でした。栗林公園の前で明治の始めからお酒づくりをしていた蔵でした。

— 大変だったでしょうね。ご主人は杜氏さんだったんですか。

私が結婚した当時、杜氏さんは笠岡(岡山県)の備中杜氏が来てくれていました。杜氏さんが二十人くらい蔵人を連れてくるんです。精米氏が二〜三人。女性は蔵の中に入るのがダメということで釜焚きのおじさんとか食事をつくる人なども杜氏さんが連れてきていました。男の人がお寿司でもなんでも上手につくっていました。

— 面白いですねぇ。チーム全部のまかないも男衆がやるんですか。

そうなんです。私よりもずっと上手でした。瓶詰めのお手伝いとかはしましたけど、やっぱり女性は蔵の中には入れなかったですね。

— 今では女性の杜氏さんもいらっしゃいますよね。

そうですね。蔵の中が少しずつ機械化されて、杜氏さんが連れてくる蔵人が少なくなってきた頃からですね。昭和の終わりごろから女性入蔵禁止が少しずつ和らいできましたね。

— 杜氏さんは自分の酒造りのやり方を蔵に持ち込むわけではないんですよね。

その蔵ごとの伝統があるから、こういうお酒が作りたいということを蔵元が伝え、杜氏さんに任せていくんですね。

— そこでもう翠さんお子さん3人くらいお産みに?

二人ね。ふふ。上の娘がその工場で生まれたんですけど。

— 何年くらい、高松におられたのですか

小豆島にくるまではずっと高松でした。平成17年だったかな、ここに蔵が出来たのが。11年前ですね。高松の蔵が栗林公園の真ん前だったんです。香東川の副流水があってね、そのお水がすごく良かったんです、昔は。香東川の横に通っている細い川のお水でお酒を造っていたんですけど、周りにマンションとかいろんなのがいっぱい建って、お水が悪くなってきたんです。井戸も大きな井戸が3つくらいありました。だから神戸の震災のときは、その井戸水をトラックいっぱいに入れて何回も運びました。その頃まではお水がまぁまぁ良かったんです。でもお酒の場合は水質検査がとても厳しくって、このお水はもうどうしてもダメだということになってしまった。

— それで高松のお店をもう閉めようということになったんですか。

そうなんです。それで、どこかないかなということで、塩江や山手の方まで水を探しました。

— 酒造りだけは、どこかでやろうとお父さんは思っていたのですね。

そうなんです。主人は酒造りにとても情熱かけていましたから諦めきれなかったのでしょう。だから、水。酒造りには水が一番なので、水、水、水と探したんですけど、鉄分が出たりとかでなかなかいいお水が無かったんです。ちょうどその頃、主人の姪がこちらでお醤油屋をしていたんです。それで小豆島の星ヶ城にいいお水があると声をかけてくれたんです。

— そしたら水があった。お父さんのお眼鏡に適ったのでしょうか。

やっぱり水を全部持っていって検査してもらってからここでやってみようということで始めたんです。

— へ~すごい決心ですね。それはお父さんがいくつくらいの時なんですか。

ええと、主人70歳の時ですかね。

— すっごい!

ほんとにね。主人はお酒造りだけにはすっごい情熱を持っていたんです。

— 年齢ではないんですね。

体もとても元気だったんです。野球したりテニスしたりね、頑張ってたんです。島に来てお酒造りを始めて、5月によろけて倒れて、頸椎を痛めてしまったから首から下の神経が全然通らなくなった。本当にすごく苦労しました。

— お父さん倒れる前に、今の敷地に蔵やカフェはもう出来ていたんですか?

いいえ。だからね、向こうのお醤油やさん、姪のところの空き地を借りて小さい工場を建てて。地鎮祭が終わって2〜3ヶ月して倒れたんです。それからはもう…、大変でした。それからお父さんは、近くの内海病院に入院したんです。だけど、もうお仕事どころじゃなくって、寝たまま動けないでしょう。幻覚を見て虫がいっぱい飛んでるだとかそういうことも言い出して、これはもうダメかなぁ思ってたんですけど、やっぱりお酒のことはすごい執着があったんでしょうね。なんとか持ち直して元気になってきてねぇ、手も動かないのにテープをいっぱい巻いてペン持って練習して。お習字が好きだったんですよ。そしたら筆の方が書きやすいからと言って新聞紙に筆で練習したり。それでも首から下の神経が通ってないから別の病気に負けてしまいました。蔵を建ててお酒造りを始めたものの、やっぱりちょっと狭かったので、一年やってから、ここに移りました。

— 森國酒造っていう名前にしたのはどういった経緯からですか。

主人が、森國さんと蔵を立ち上げたんです。これからは若い人の時代だからと「森國酒造」という名前にしました。森國さんはもう辞めてしまって今は女三人で頑張っています。

— すごいじゃないですか。外から見ていても女系家族三人でやっているイメージがすごくあります。

だから…やっぱり、いろいろあって(笑)。

— そうですよね。今、森國酒造のお酒をつくっておられる杜氏さんはどなたですか。

今、うちのお酒をつくってくれている杜氏は但馬から来てくれています。杜氏組合って言うのがあってね。お世話していただきました。

— 近代化されたんですね。いいような、淋しいような。

昔はね、精米いうたら三人くらいで夜寝ないで毎晩お米ついてたんですよ。それが今はもう精米されたお米がサッと来るんですよ。

— 杜氏さんが味を決めたり、こういうお酒をつくろうだとか、お父さんの代わりをされているのですか。

それはこっちで手配して、何のお米でお酒をつくろうかと決めています。長女がそれを考えています。長女は医療の方の仕事してたんです。お酒をどうやってつくるかということも知らなかったでしょうけど、通信教育で酒造りの勉強して、今なんとか頑張ってくれています。小さい頃は粕をつめたり、お酒の瓶詰めのお手伝いをしていました。庭にでれば蔵人がいてお米を洗う姿も見てきとるからね。

— 家業ですもんね。家業の中で育ってん ですもんね。身に染みていますものね。杜氏さんというのは毎年同じ方が来るんですか。

同じ人です。うちなんかは今、素人ばかりなので組合に入っていれば、もし杜氏さんが病気になって来られなくなった時、組合が他の人を手配してくれたりするんです。できたら組合に入っているベテランの杜氏さんにお願いしとった方が、こちらとしては安心ですね。

— そうですね、女所帯ですしね。いま酒造りの勉強のために大学生が来ているんですか。お酒つくる人になりたい方なんですか。

そう、お酒に興味あってね、京大に行っている子が春休みに来ていたんです。自分のつくったお酒が気になると言うんでね、森國祭にまた来ますって言って帰っていきました。

— お酒づくりだけじゃなくて、ここをカフェにしようって、カフェにしていこうと思ったのは、翠さんですか?

いえいえ、若い子たちです。主人もそう言ってたんですけど、こういう場所をつくって若い人に日本酒の良さをわかってもらったらいいって、利き酒をするための場所としてつくったんです。高松のデザイナーさんにお願いして、改装もしつらえも酒瓶のデザインからネーミングもこしらえていただきました。

— 年々お客さんは増えていってますか。

そうですね。広まってきています。お酒もわりとね、いいお酒ができてるんです。「ふふふ」というのが若い人たちに人気なんですよ。ネーミングも含めて。

— いま小豆島で暮らしてどんな感じですか。こちらに来られたの70代の前半ですよね。お父さんもすごいけど、お母さんもすごい。

小豆島ねぇ。人情の厚いところだし、私、よかったなぁと思っています。地域の人やご近所さんによくして頂いてありがたいと思っています。やっぱり主人のお酒づくりの情熱というかね、それに付いて来たんです。お酒に心血注いだ人でした。

— これからもうちょっと違う風に展開していきたい、広げたいという考えはありますか。

皆でいろいろ考えています。ふふ。いま若い子がどんどんと森國酒造に集まって来てくれています。色々なアイデアを出してくれていて。これからが楽しみです。うちの孫が今年から東京の農大に行くんです。醸造の方に。だから、あと10年わたしも元気でおらんといかんなと思ってるんです。農大4年いって、また他所で経験せなあかんでしょう。そうなるとやっぱりねぇ、すぐには帰ってこれないし。わたしあと10年がんばらないかんなと思って。

— それは楽しみですね。翠さん大丈夫です、頑張れます。

インタビューと写真撮影 平野公子/太田有紀

左から うとうと(純米酒)、びびび(本醸造)、ふふふ(吟醸酒)

他にも、ふわふわ(純米吟醸酒)、春の光(大吟醸、吟醸生原酒、山廃)があります。

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