かなわない / 家族最後の日/佐藤友理

はじめまして。高松の本屋「BOOK MARUTE」で働いている佐藤友理と申します。

これから、本についてのはなしを書いていきます。

本のはなし、といっても、読書はとても個人的な体験なので、結局は読んだわたしの話になってしまう・・・それでも「ちょっとわかる」とか「読んでみたい」とか思ってもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。

今回取り上げる本

「かなわない」(植本一子著、タバブックス、2016年)

「家族最後の日」(植本一子著、太田出版、2017年)

これまで生きてきて、「これを読んで自分が変わった」という本が何冊かある。

最初にそれを明確に自覚したのは、二十歳のときだ。大学生だった当時、生まれてはじめてできた恋人とあまりにもうまくいかずに別れてしまったときに、1冊の本に救われた。恋人とうまくいかない、というのは、性格が合わないとかそんな次元のはなしではなく、もっと根本的な、わたし自身が抱えていた根深い問題が原因だった。

当時は、相手にとって自分が特別な存在なのだということが、本当に理解できなかった。好きだと言われても、どうせすぐに嫌われるはずだと決めつけた。相手が望む以外のことをすればきっとすぐに見捨てられると、本気で怯えていた。だからあのころのわたしの言葉や行動は、「嫌われないため」だけに存在していたのだ。そうやって慎重に、慎重に、言葉や行動を選んでいたら、気づけば「言いたいことを言う」とか「思うままに行動する」とか、そういう基本的なことからどんどん遠ざかっていた。こうしたい、ああしたいという欲求を無視し続けたわたしは、自分がからっぽになったような気持ちになって、「こんなからっぽなわたしは嫌われて当然だ」という思いをさらに強め、何が悲しいのかもよくわからないまま、一人になると泣いてばかりいた。ああ、いま思い出すだけで、面倒臭い。そんな人間と一緒にいたい人なんていない。健全な心の交流がないまま、喧嘩もしていないのに、最後はお互いに疲れて果ててしまったのだと思う。

別れてからは、「あのときこうしていれば」の無限ループから、抜け出せなくなっていた。素直に言いたいことを言って、思った通りに行動していたら、きっと後悔なんてしなかったのに、なぜわたしはあんなに怯えていたのか。

むかしから、友達付き合いが苦手だという自覚があり、それなりに悩んでもきた。けれど、こんなにも自分の愚かさを痛感したのははじめてで、かなりダメージを受けた。

どうしてわたしはこんな性格になってしまったのだろう。どうしていつも、簡単なことを難しくしてしまうのだろう。自分の中に、何かものすごく大きな欠陥があるらしいことを自覚してしまい、それを取り除かない限り、この先何をしても、誰と出会っても、うまくいくはずがないと思い、絶望した。人と関わるのが怖くなり、どこに向かうでもない焦りが募っていた。早くどうにかしないとおかしくなってしまう。でも何をどうすればいいのかわからない。

そんなとき、ふらりと入った本屋で、心理学の本が平積みにされているのが目に入った。わたしはそれを反射的に買い、すがるように読んだ。そこには生きづらい人の特徴として、わたしがモヤモヤ考えていた「なんでこんな性格になってしまったのだろう」の「こんな性格」の部分が、淡々と箇条書で書かれていた。簡単にいえば、わたしは自己価値感の低い人間だったのだ。その「症例」は、おそろしく自分と酷似していた。怖いくらい当たる占いに出会ったときのように、とても興奮したのを覚えている。わたしの性格は、こんなに的確な言葉で形容できるものだったのか。これまで誰も指摘してくれなかったこと、面と向かって人に言われたら激しく落ち込んでしまうようなことでも、本の中の人との対話なら素直に受け止められた。

その本を読んで知ったことは、わたしは生きづらい人間の典型であり、すでに研究されてきた存在であるということ。つまり、解決策も、改善例もあるということだった。それがわかったとき、視界が大きくひらけて、心が軽くなった。わたしはこれから、変わることができる。

無限ループが終わった。「あのときの自分は未熟で、ああするのが限界だったのだ」と、過去を諦めて、自分を許せるようになっていた。自分の人生を生きているという当たり前の感覚が、はじめて腑に落ちた。

昨年話題になった、写真家・植本一子さんの著書「かなわない」を読むと、そんな以前の自分が体験した葛藤や辛さを、ありありと思い出してしまう。「かなわない」には、達観した夫との結婚生活、母との関係、子育て、好きな人などにまつわる苦悩が事細かに綴られている。その苦悩の根底にあるものが「生きづらさ」であると気づいてからは、少しずつそこから抜け出そうとする過程が、とてもリアルに描かれる。わたしは結婚も子育てもしたことがないので、植本さんの気持ちをすべて理解できるわけではないけれど、「この人はわたしと似ている」と思わずにはいられなかった。

本人がありのままを書いた日記だから、美化も誇張もされず、救いのない辛い描写も多い。本書についての都築響一さんの書評にある「これが最高に上手く書かれたフィクションだったらいいのに、と何度も思わされた」という言葉に激しく共感しつつも、わたしは、これがノンフィクションであることに、大きな希望を感じていた。書かれていることが真実だからこそ、それが言葉になることで、苦しんだことも、人を傷つけてしまった過去も、それに嫌悪し続けた自分のことも、すべてまるごと許されるようだった。植本さんが、自分の身に起きたこと、思ったこと、心底実感したことをただ正直に書いてくれたことで、わたしは救われ、魅了されたのだ。ある1人の日常の記録が、人を救う。それってすごいことだと思った。もしいま二十歳だったら、心理学の本ではなく、この「かなわない」が、わたしを変えていたのかもしれない。

植本さんがなぜこれを本にしたのか、わたしにはわかる気がする。以前の自分と同じように、得体のしれない苦しみを抱えている人が、数え切れないほどいることを知っているからだと思う。彼らは生きづらさを自覚しながらも、一見普通に生活している。そして今日もその苦しみは、誰にも預けられずにどんどん大きくなり、消化できないまま、その人の首をしめ続ける。まわりが手を差し伸べてもなかなか消えることはない。結局本人以外に、その人を救える人はいない。

「かなわない」を読んだ人の中には、誰にも感想を言わずに、そっと静かに苦しみから抜け出す糸口を見つけた人がいるはずだ。以前のわたしのように。

大げさではなく、この本はきっと何人かの命を救ったに違いないと、わたしは思っている。

自身が抱える根本的な苦しみと向き合った「かなわない」に対し、今年出版された植本さんの新刊「家族最後の日」では、短い期間のうちに、身の回りで様々なことが起きる。本の帯には「母との絶縁、義弟の自殺、夫の癌—。写真家・植本一子が生きた、懸命な日常の記録」とある。重い言葉の連続に、つい「壮絶」という言葉が浮かぶし、書評などでも散見されるけれど、わたしはそういう印象は抱けなかった。壮絶という言葉は、「壮絶な生涯」とか、過去のことを客観的に総括して使われることが多いような気がする。でもこの本の中の植本さんは、まさに今も、悩み考えながら生きて、日々を駆け抜けているという印象が強い。まだまだハッピーエンドなんて語れないし、納得感のあるきれいな結論なんて出ない。現在進行形で続く切実な日常に対して、わたしはまだ客観的になりきれない。

植本さんが置かれている境遇は稀有ではあるけれど、ここに描かれる心の動きひとつひとつは、わたしにも身に覚えのある感情だった。植本さんは、ついかき消そうとしがちな負の感情も、なかったことにしない。誤魔化したり、ねじまげたりしない。こんなにも実感のこもった言葉を浴び続ける読書体験を、わたしはほかに知らない。

あらゆることに寛容になれない自分にうんざりしてしまうことがある。いちいち気にしてしまうことを、気にならなくなれば楽なのにと思う。でも一方で、それがなくなってしまったら自分が自分じゃなくなってしまうのではないか、という気もする。ひとつひとつ立ち止まらずに、前だけ見て進んでしまったら、いままで見えていたものが見えなくなってしまいそうで怖い。

これまでは、寛容になることが自分を楽にするのだと思っていた。でもそうじゃなくてもいいのだと、この本に教えられた。面倒な自分の中に生まれつづけるあらゆる感情は、言葉になることできちんと存在を認められ、「そのままでもいい」と肯定される。

ずっと「そんなこと思っていても口に出すもんじゃない」という空気の中で生きてきた気がする。我慢は美徳で、苦労は顔に出さず、だからマイナスなことは思っても言わない。生きていれば日々いろいろな感情が生まれ、それは言葉となって頭の中に蓄積されていくけれど、それらは発してはいけないものとして、無意識に押し込められていく。

この本に対して、もし、「そんなことみんな思っているけど言わずに我慢しているのに」と感じてしまう人がいるとしたら、そういう人こそ、誰にも知られずにこっそりとこの本に救われてほしい、なんて思ってしまう。言いたいことを言えないのは苦しい。でもそれが社会で生きる大人の作法なのだとしたら、そんな大人たちのために、この本があってよかったと思う。だって、わたし自身は何もさらけ出していないのに、すべてを肯定された気持ちになれたのだ。

正直でいることは最強だし、究極の自己肯定だと思う。

この本は、正直に生きることを許してくれる。読んだあと、うわべをなぞった言葉にはもう心が動かなくなってしまった自分を発見したとき、もう腹をくくるしかない、と思った。「これを読んで、わたしは変わった」のだ。

この本の存在は、きっとこれからもわたしを救ってくれるし、大きな味方になってくれる。

最後に・・・

人との関わりは、一筋縄ではいかず煩わしいことばかりだけれど、それと向き合うことは避けて通れないと同時に、どうしようもなく愛おしい。そんなことを、植本さんが紡いだ言葉によって何度も気づかされた。決して楽しい内容ではないのに、ぐいぐい読ませる文章がやっぱり、すごい。

植本一子写真展「家族最後の日の写真」

2017年5月20日〜6月4日

MARUTE GALLERY(BOOK MARUTE隣)



佐藤友理
1988年宮城県生まれ。縁あって移り住んだ香川県で、ギャラリー併設の本屋BOOK MARÜTEの店長をつとめた後、2017年秋、故郷である東北に拠点をうつす(予定ですが、現在は長野県の山小屋で出稼ぎ中)。本のある空間をつくるべく模索中の日々。

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