チャイナのトイレから(1)/山本佳奈子

 ついに中国にやってきた。沖縄から流れて福建省は福州市。ガジュマルやビロウがそこらに生え、空は青く澄み、おじいやおばあ、部活帰りの中高生、ママ友たち、大学生などが、その辺でのんびり立ち話している。北京や上海のように地下鉄網が発達しておらず、地下鉄は一路線のみ。人もおだやか。道を渡るときなんかも、車やバイクは比較的歩行者に譲ってくれるし、地方都市のゆったりした空気はまるで中国にいるような気分にならない。「あなた、今台湾を歩いてるんですよ!」と言われたら「ああ、そうですか。道理でみんなゆったりしてますなあ」と、納得してしまいそうな雰囲気である。

 こちらに来て1ヶ月半経った。まだ中国普通話を話せるようにはならないし、聞くのもまだまだついていけないが、飲食店でのやり取り程度はなんとか出来るようになってきた。福州に到着するまで中国語を一切勉強してこなかったため、こちらに来てからはほぼ毎日5時間ほどを自習時間に費やしてきた。語学のコツを知っているから、勉強方法を分かっているのである。自分で言うのもなんだが、英語はある程度できるし、また半年程度でスペイン語日常会話を習得したこともある。(その後スペイン語は一切使わなくなり忘れてしまったのだが……。)語学のコツは、いかに自分ごとにするか、ということである。単語帳で覚えるのは誰だって難しい。効率よく名詞や動詞、フレーズを覚えるには、自分に関係する事柄で例文を創作し読み込んで自分の脳に馴染ませることである。妄想力である。さも相手がそこにいるつもりで、状況を想定して、伝える練習を重ね重ねて、実践に持ち込むのだ。テキストや辞書に載っている例文をアレンジして、名詞や代名詞、動詞を入れ替えながら自分が今後使いそうなフレーズを作る。

 その勉強方法でもってこれまで英語もスペイン語も習得したわけだし、とても自信を持っている。が、この勉強方法の難点といえば、際限がないのだ。気になればどんどん辞書で調べて、新しいフレーズを見つけ、何度も読み込む。ときにはテレビで聞いたフレーズを自分ごとにアレンジしていく。そんなことをやってると、気づけば5時間なんてあっという間に過ぎている。

 しかし、つい数日前ぐらい、そんな自分に「なにやってんねん」と思った。今34歳。朝は大学の中国語コースの授業へ行き座学で3時間勉強。昼ごはん食べて、寮の部屋に戻って自習。5時間自習して、お腹が空いたら晩ご飯を食べる。晩ご飯のあとは、ゆるくテレビを見ながら中国語の発音を脳に叩き込む。そして、寝る。こんな生活、つまらなくないか?と、数日前に気づいた。

 私は中国普通話の翻訳家にも通訳士にもなりたいと思っていない。そういうことは本業の人に任せておきたいのだ。今中国で暮らすという経験を踏んでいる理由は、まさしく中国で暮らしてみたかったから。語学に関しては、一年後に日常会話ができるようになれば問題無いはずだ。その程度の目標なのであれば、自習は一日2時間もやれば十分ではないか?勉強するということにすっかり夢中になって楽しくなってしまい、ガリ勉を極めるところだった。

 気づいたのちに私は、またガリ勉の道に走ったりしないように、自分へのステイトメントをササッと走り書きした。働かずに中国で滞在できるこの期間を生かして、やりたかったことが実は結構ある。やりたかったことを、潰さないとあかんのだ。沖縄に住んでいる間はデイジョブと、Offshoreのツアー・イベント制作や原稿とで、「あー、暇やわ何しよう」と思う時間が微塵もなかった。今は幸運にも、中国で孤独に自分と向き合えている。何をするにも自分次第。沖縄から送った積ん読約10冊も届いた。やっとページをめくることのできる本もある。また、これまで構想していながらも着手できていなかったzineや原稿も書けるではないか。この刺激の少ないゆるりとした地方都市福州にいるからこそ、ゆっくり書くことと向き合えるのだ。これが北京や上海だと、毎週末なにかしら見に行きたいイベントがあったりして、大忙しのはずだ。一ヶ月に一度ぐらい博物館や美術館、文化的なスペースに遊びに行って、日々沖縄ではできなかったことをこなしていく。こんな滞在ができるなんて幸せじゃないか。自分の時間を使う方法がはっきり見えたことで、私は今うきうきしている。この機会に、知識を取り込み、書きたいことを書き、これまでとこれからの自分を整理しないとあかんのだ。

 さて、私がこの中国に滞在している間に書きたいことのひとつといえば、トイレのことである。前置きが長くなってしまった。すでに約2000字を費やした。2000字も使って、私はまだ自分のこの1ヶ月半の反省しかしていない。私が中国のここ福州からみなさんに声を大にして伝えたいことのナンバーワンは、トイレなのである。中国といえば、トイレだ。中国に失礼かもしれないが、トイレとは、中国において、とっても大事な論点だ。トイレ編の原稿こそ、もう何部構成になるかわからないぐらい際限がない。ガリ勉している場合ではない。だって、私たちは日々個人差はあれど何回もトイレに行って用を足すのだ。トイレとは生活の一部であり、だからこそ世界にまるっきり同じトイレなどなく、多様である。そして今あなたが「中国」「トイレ」と2つの言葉を目にして思い描いているダーティーなイメージの本質は、果たして本当にダーティーなのだろうか。これは自分にも問いかけたい。日本のトイレはなぜキレイで、中国のトイレはなぜ汚いのか。

 ひとつ重要な前提を告白しておくと、私は非常にトイレが近い。利尿作用の高いお茶やコーヒー、はたまたビールを格段に好むからかもしれないが、平均して1日に8〜10回はトイレに行っていると思う。つまりは、起きてる間は2時間に1回はトイレに行っているのだ。ここ福州でのトイレ体験を紹介しながら、また、これまでの中国を含む様々なアジアでのトイレ体験も踏まえて、トイレについて考えた私の持論と推察を展開していきたい。現段階では私もこのトピックがどこに転がるかわからないままタイピングしているのだが、私たちは今まで、あまりにもトイレのことを語らなさすぎなのだ。こんなに毎日、毎日、用を足しているのに。

 ここでお断りしておくが、ここから展開するのはトイレの話なので、お食事中の方はご遠慮願います。

 沖縄を発ったのは2017年9月5日だった。那覇から香港経由で福州へ到着したのだが、香港国際空港に到着し、私は重要なことを認識していなかった自分に、気づいたのだ。日本を離れて中国で暮らすということは、使用済みのトイレットペーパーをそのまま便器にポイと捨てることのできない生活が続くということなのだ。中国のみならず、日本以外のアジアのほとんどでは、トイレットペーパーをそのまま便器に流すことができない。香港国際空港に到着し、乗り換えロビーのトイレに急いで入り、個室に入った瞬間に、「あ、そういうことか〜」と、この先長く続くトイレットペーパー流せない生活に腹をくくった。

 あるとき友人に、この流せないトイレットペーパーの処理について興味深い話を聞いたことがある。流せないトイレットペーパーの捨て方にはマナーがある、と。拭いた後のトイレットペーパーをそのままポイとゴミ箱に捨てる。そしてそれが公衆トイレや駅のトイレで何十人分もたまれば、なかなか悲惨な様相かつ壮絶な臭いになってくるのだ。これを、きちんとマナーよく捨てるとすれば、拭いたあとのトイレットペーパーは、さらにきれいなトイレットペーパーで包んで捨てることがお上品なのだそうだ。これまで日本にて使用済みトイレットペーパーをそのまま便器にサヨナラ、ジャーッと流していた私には、思いつかなかった発想である。なるほど、お嬢さまやお坊ちゃんはそういう風にしつけられて育てられているのね、と感心すると同時に、これまであらゆるアジアのトイレで捨ててきた自分の使用済みトイレットペーパー残骸が脳裏に浮かび、恥ずかしく思ったりもした。

 ここ福州では、私は大学の語学コースに通っており、寮の一人部屋をあてがわれている。部屋の中にはトイレもシャワーもあり、掃除もゴミ捨ても自分で行なう。つまりは、流せない使用済みトイレットペーパーは、自分で処分しなければならないのだ。そういう状況になると、もちろん自分の使った汚いトイレットペーパーは自分でも見たくないので、先ほどの「上品な使用済みトイレットペーパーの捨て方(お嬢さま・お坊ちゃん編)」を実行するようになる。これは自分でも多少驚いた点でもあるのだが、自分一人しか使用していないトイレで、使用済みトイレットペーパーを捨てるゴミ入れに、自分一人だけだからこそ、できるだけ見て嫌な気分にならないようにしよう、と、自分で自分に良くしてあげているのだ。毎回きちんと、お上品に、真っさらなトイレットペーパーに包んで捨てる。誰も見てないし、誰にも見せないのに。そういえば大昔、当たると聞いた占い師に占ってもらった時、「あなたは外面(そとづら)が良い」と言われたことがある。その占い師に今言ってやりたい。外面どころか最近では内面も良くしておりますよ、と。

 使用したトイレットペーパーをさらにトイレットペーパーで包んで捨てる、ということは、御察しの通り、結構な量のトイレットペーパーを使うことになる。そうなると、これまで便器に捨てて流していた時よりかは、トイレットペーパーの使用量を考えてしまう。「え、もう10ロールなくなったん?」と驚けば、「こないだ買ったトイレットペーパーよりも厚くて長いやつを買おう」「使いすぎには注意しよう」と、必然的にエコ思想になってくるのだ。日本よりも何秒か長く使用済みトイレットペーパーと向き合うことで、この湯水のように使っていたトイレットペーパーがタダではないことを思い知らされたのだった。

 それにしても、日本はティッシュを持たずに生活できるようになって久しい。1983年生まれの私が小学生や中学生だった時代、トイレットペーパーはどこにでも設置されてはいなかったと思う。あると思ったらなかった、とか、そもそもこのトイレのトイレットペーパーホルダーにトイレットペーパーがセットされてるところを見たことがない!というようなことが、そこらじゅうであったような気がする。中国ではまだまだ、トイレットペーパーなんて置いてくれていないトイレが多い。トイレットペーパーが置いてあるとすれば、そこそこ良いお値段のレストラン・カフェ、美術館や観光名所、最新のショッピングセンター等のトイレである。駅や古い食堂のトイレ、公衆便所には、トイレットペーパーは9割9分ない。私は日本ではポケットティッシュを持ち歩くことがほとんどなくなったが、こちらではやはり、いつトイレに行きたくなるかわからないし、緊急時に備えてポケットティッシュを2、3個カバンに常に入れている。日本の公共トイレほとんどにトイレットペーパーが設置されている理由として一つ考えられるのは、使用済みトイレットペーパーを流すことができるからなのである。うっかり流せないタイプのポケットティッシュを流されたらトイレがつまり、修理費用がかさむ、なんてことがありそうだ。水に溶けないタイプのポケットティッシュを流されたら困るから、トイレットペーパーを常備する。どうぞ使ってください、その代わり、他の紙使うなよ、と。

 ネットや人の噂によると、日本以外のアジアの下水管は細く、紙を流すと詰まってしまうらしい。それでも、紙をどうしても流したくて便器に流す日本人や欧米人がいるらしいのだが、それは絶対、あかん。詰まる。私の経験上、うっかり紙を流すと本当に流れなくなる。やめたほうがいい。台湾では最近下水管が太くなったのか「紙を流せるようになった」という台湾政府からの発表があったらしいが、もし次台湾に行っても、私は怖くて便器に流せないと思う。

 日本はトイレットペーパーが常備されていて便器に流せる。しかし、日本以外のアジアではトイレットペーパーは概ね常備されておらず持参が必要、そして流せない。どう考えても日本のほうがトイレ便利やん、と思われるかもしれないが、そのトイレットペーパー代、どれぐらいかかってるんやろう?と、ふと考えてしまうと、使用済みトイレットペーパーを流せる生活が憎たらしくなるときもある。電車や地下鉄の駅で、コンビニのトイレで、公衆トイレで、百貨店のトイレで、地下街のトイレで、だいたいどこにでもトイレットペーパーはあるが、いったいトイレットペーパーの一日の消費量は円にしていくらぐらいなんだろう?そのお金、もし公衆トイレや公営の駅だったとして、いったいいくらの税金がトイレットペーパーに……とか考えると、なんだかケチらしくなってくるのでこの話はいったんここまでに。

 日本以外のアジアの下水管は細い、と書いた。これもおそらく真実である。経験上、紙を誤って流したわけでなくとも、便秘続きの後に用を足すと詰まってしまうことがある。何度か流せば解決できるときもあるのだが、先日、ここ福州の我が部屋にてなかなか詰まりが解決できなかった。最終的には、正式名称「ラバーカップ」と言うらしいあのトイレ詰まりを解消する器具を、同じ寮建物内の共有便所から見つけてきて解決できたのだが、解決できるまでは冷や汗ものだった。また、ラバーカップのみならず、ネットで見つけた詰まり解消方法がじわじわと我が部屋のトイレに良い影響を与えている。便器に重曹と酢を多めに入れて、1時間ほど経ったら50度ぐらいのお湯をたっぷり流すという方法。これによって、便器の奥に詰まった尿石が溶けるらしい。この部屋に入居し始めてからずっと弱々しい流れだったが、この対処の後は流れが良くなった。古い住居に住んでいるみなさんはぜひお試しを。

 また、その詰まり解消のために四苦八苦しているときに思ったのだが、やはりトイレとは、どれだけ綺麗に見せかけても汚いのである。詰まっているトイレと向き合うことにうんざりした。詰まり解消のために行う作業によって水は跳ねるし、自分の掃除が至っていない部分も凝視せざるを得ない。雑菌が育つべき環境がトイレ周辺には整っている。日本のトイレは、綺麗なように見えて本当に綺麗なのか?と私はいつも心のなかで問うている。百貨店やレストランのトイレは、とっても綺麗な雰囲気の快適なトイレを装っているが、結局は人間が用を足すところなのである。綺麗な雰囲気で汚いトイレが良いのか、汚い雰囲気で汚いトイレが良いのか、さて、どうだろう。よく読んでほしい。どっちも、汚いことには変わりないのだ。日本のトイレは、本当のところは存在する雑菌や汚さを「雰囲気」で誤魔化しているだけのように思えるのだ。そう思うようになったのは、中国でも最上級に見た目が汚いトイレを体験してからである。パッと見、最上級に汚ければ、人間は気をつけてトイレの中での1、2分を過ごす。手や足が汚い部分に触れないように、一切の間違いがこのトイレで起こらないように、細心の注意を払う。そして事後、めっちゃ綺麗に手を洗ったりする。「雰囲気」が綺麗な場合はついうっかりトイレ内で余裕を持ってしまいがちである。百貨店などの女子トイレでよくあるのが、個室トイレで用を足すだけではなく携帯をいじって時間を過ごす人がいるということである。これ、雑菌の傍で携帯いじりながらトイレで長時間過ごすということになり、非常に危険な行為だと思わないだろうか?中国のように、見た目が「きったなー、早く出たい!」と思うトイレであれば、誰も長時間トイレ内で過ごしたいと思わなくなり、雑菌との接触も最短時間で済み、女子トイレの行列も解消できるのではないかと思うのだ。

 いかにトイレを綺麗に見せるか必死に開発していらっしゃるトイレメーカーのみなさんに怒られてしまうかもしれないが、私はやはりトイレはトイレらしく汚さが目でも確認できなければ、偽りの美しさの奥にある汚さが見えづらくなってしまい、なんだか怖い。また、日本のトイレはあまりにも快適で、自分が排泄するという行為が一瞬でトイレの奥に消え去る。さも、排泄なんてなかったことかのように、下水の奥に葬られる。ここ中国では、大をしたからといって水を何回も連続で流せる高機能トイレは存在しないし、使用済みトイレットペーパーとも面と向かって目を合わせなければいけないし、自分の排泄物と向き合わなければいけないことが格段に日本より多い。なんとまあ私とは、人間らしいのだ。生き物だ。と、何度もここ福州のトイレで感じている。食べて、息して、排泄して。私、生きています。

 さて、次回は具体的に中国でどんなトイレを体験してきたのかできるだけ詳しくお伝えしたい。次回もおそらく、食事中の閲覧厳禁となります。




山本佳奈子
アジアの音楽、カルチャー、アートを取材し発信するOffshore主宰。 主に社会と交わる表現や、ノイズ音楽、即興音楽などに焦点をあて、執筆とイベント企画制作を行う。尼崎市出身、那覇市在住。
http://www.offshore-mcc.net

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