南大東島・体調不良記/山本佳奈子

 沖縄を一年間離れることとなった。那覇からほぼ西に一直線、海を渡って約800km。福州市に一年間住む。一年の語学留学を終えるとまた沖縄に戻ってくるのだが、人間というものはいつ死ぬかわからないし、こういうときに湧いてくる「今のうちにやっとかなあかん」という関西人っぽい感情。今のうちに離島へ行ってみたい!というわけで、一番誰も行かなさそうな島「南大東島」へ遊びに行ってみた。そのときの話をここに書く。相も変わらず、離島へ行ったというのに、青い海も青い空も登場してこない話である。

 沖縄県の中でも一番東に位置する北大東島・南大東島に行ったことのある人はなかなかいない。八丈島と沖縄本島のあいだ、沖縄寄りに浮かんでいる二つの島は、位置としては沖縄寄りなのに、文化としては「八丈島寄りでしょう」とよく言われていて、はて?と思っていた。八丈島の文化のほうが濃く、沖縄の伝統文化などを研究する学者たちも北大東島・南大東島には行く用事がないらしい。しかし。私は実は大昔に八丈島でリゾートバイトをしたことがあって、八丈島の生活文化ならうっすら覚えている。はたして、八丈島にも行ったことがあり、さらには琉球文化圏の沖縄県那覇市に2年半住んでいた私は、南大東島へ行ってどう思うのか?いや、話の本題は、またここではなく、もっと違う方向へと進めていきたい。

 さて。南大東島、もしくは北大東島まで、那覇から普通に個人旅行で行くといくらかかるだろうか。ただいまサクッと調べてみたところ、那覇からの航空券代は片道15,000円を超えている。往復で3万円超。こんな大金があれば海外でも東京でもいける。航空券が往復3万円超、そして宿や飲食代を含めて、まあまあおそらく2泊3日ほどで一人5万円以上は固いだろう。そこを、なんと2泊3日、航空券代込み、食事付き、宿込み、ガイド込みで27,800円ほどの南大東島ツアーに参加できるプランがあったのだ。沖縄県が、沖縄本島の人たちと他の離島の人たちの交流と離島振興を目的に始めた事業「島あっちぃ」というプログラム。このウェブサイトで私は南大東島をみっちりめぐるツアーを見つけて、応募したら見事当選し、行けることになったのだ。

島あっちぃ ウェブサイト https://acchi.okinawa/aboutus

 話はここからである。私が参加するのは、旅行ツアー。私ひとりではない。私はこれまで、一回も団体ツアーというものを経験したことがない。旅行のみならずとも、どこに行くのも一人。そんな私が、初対面の人と一緒に旅行できるのだろうか?南大東島に行く一週間ほど前からだんだん不安になってきた。私以外全員グループでの参加者で、私は浮いてしまうんじゃないだろうか。出発の二日ほど前には、不安が最高潮に達し、もう、南大東島どうでもええわ、な気分になっていた。南大東島に行ってみたいと思っていた気持ちはなんだったんだろうか。しまいには、自力で南大東島へ行く場合の金額と自由度、「島あっちぃ」で行った場合の金額と団体行動の不自由さ、その両者を比べてどちらがコストパフォーマンスが良いか……?なんて考える始末だった。

 結果から言うと、行ってみて良かったのだ。人は、やさしい。そもそも、こういう団体ツアーに参加する人は社交的で、コミュニケーションがうまい。一人で参加している私に気軽に声をかけてくださる他のツアー参加者のみなさんや、ツアーガイドのみなさんのやさしさに、涙が出そうだった。

 おそらくかなり緊張していた私は、惜しくもツアーの二日目夜、つまりは南大東島での最後の夜。嘔吐するほどの強烈な偏頭痛に襲われた。二日目夜には、居酒屋での食事と地元の人たちとの交流会が予定されていたのだが、ホテルで休養を取らせてもらうことにした。二日目は朝からたくさんの観光プログラムをこなしており炎天下のなかに立つことも多かったためか、軽い熱射病でもあったのだと思うのだが、おそらくそれだけではなく、極度の緊張によるストレス蓄積も原因であったはずだ、と、あのときの自分を振り返って思う。ツアーが一日目、二日目と進むにつれ人間のやさしさに気づいた私は、不必要に自分の中に溜めていた緊張というストレスを、偏頭痛という形で吐き出したのかもしれない。

 夜9時を過ぎたぐらいの頃、やっと頭痛が軽くなってきて、なんとか体を起こせるようになった頃。ツアーガイドのひとりが、私が寝るホテルの部屋に夕食を包んだお弁当を届けてくれた。少しお腹も空いていたのでありがたくいただいた。ホテルの部屋にはテレビがあり、久々にテレビを見た。テレビ無し生活だったため沖縄ローカル番組をあまり知らないのだが、二年半前に比べれば、少しは沖縄ローカルタレントの名前を覚えることができている。テレビを見ながら、お弁当を食べ、またベッドで横になる。この一ヶ月ほどほとんど休む間なく動いてきたことに気づき、こうして、南大東島でじっくり眠ることができて幸せだと思う。

 翌朝、ツアー三日目最終日。この日はツアーの振り返りを行って那覇への帰路便に乗るだけである。朝食会場に向かうと、同じツアー参加者の数組がいた。一日目の第一印象では最も苦手だと思っていたマダム4人組が、「大丈夫だった?無理したらダメだよ」と本当に心配そうな顔をして声をかけてくれた。また、他のツアー参加者の方々も「大丈夫?」と声をかけてくれた。職場で突然病気で休んだりしてもこんなに心配してもらえることはない。遠く離れた尼崎に住む家族にも、たかが頭痛でこんなに心配してもらえることはない。私が逆の立場だったら、同じように声をかけられるかどうか?普段一人行動が多すぎて、こういったときの反応やHOW TOを私はあまり知らない。南大東島の観光地や観光プランどうこうよりも、「人間ってええなあ」と、壮大かつシンプルかつ恥ずかしい結論にたどり着いてしまったのだった。人のやさしさに触れることができ、私は純粋な自分に戻れた気がした。

 南大東島のこのホテルでお土産品をひとつ買ったとき、ホテルのマネージャーである女将に「南大東島まで来れる人はラッキーですよ。ここは、みんながリセットしていく場所なんです」と言われた。女将、まさに。私はまさに、沖縄社会で少し意気地になって疲れていたのかもしれない。南大東島でたっぷり観光し遊び体を動かし頭痛でぶっ倒れて寝て、リセットできた。那覇に帰着して、友人や同僚にこんな土産話をすると、「え、わざわざ南大東島まで行って寝てきたの?」と言われた……。

 私が人間のやさしさやあたたかさに触れほっこりしていた南大東島。打って変わって強烈な歴史がある。無人島だった南大東島に、八丈島から玉置半右衛門率いる開拓団がやってきたのが1900年。つまりはヒトが117年間しか住んでいない新しい有人島なのだ。この玉置半右衛門という人の経歴が凄い。八丈島ではアホウドリを捕獲し、羽は羽毛として肉は食肉として売り、巨額の富を築いた人だったらしい。しかし、アホウドリが絶滅の危機に追いやられ、これ以上アホウドリを捕獲することはできない、となる。そこで玉置半右衛門氏はアホウドリで儲けた金を元手に「他の島探すぞー!」と言ったのか誰かに勧められたのかよくわからないが、岩壁で覆われた南大東島にやってくる。今でもフェリーの接岸が困難な島に、当時よく船でやってくることができたものである。無人だった頃の南大東島は、ビロウ(ヤシの木のような樹木)が島全体に生い茂っていたそうだが、玉置半右衛門氏は「ここ、サトウキビ畑にする!」とのことで島のほとんどのビロウを伐採し、平らなサトウキビ畑に一面を塗り替えた。シュガートレインと呼ばれた当時では斬新なサトウキビの運搬トロッコ(のちに汽車となる)を採用するなど、効率化した製糖業は儲かり、今も南大東島の製糖業は完全機械化されており第一の産業だ。しかし、しかしだ。ビロウが伐採されてからの南大東島は、台風の被害を受けることが多くなったという。自然に生まれた島で、自然に生えていたビロウの木。そのビロウが玉置半右衛門氏らがやってくる何百年前、何千年前から生えていたのか知らないけれど、台風が多く通過する島の防風林となっていたビロウの森がなくなったことで、いくらかの動植物も南大東島の隅っこに追いやられたり消えてしまったりしたのかもしれない。やっぱり、人間とは傲慢な生き物である……。

写真:南大東島には飲み屋街が一箇所だけあり、フィリピン、中国などからやってきたママが経営しているお店がいくつかある。写真は、中国人ママのお店「ジャンジャン」入り口。ビロウの木に沿って造られたアーチが可愛らしい。この付近の飲み屋はどこも店内が外から見えないスナックのようであるが、女性でもなんら躊躇することなく入って良いらしい。今深く後悔していることは、まだ健康だった一日目夜に、倹約しなければと思って飲み屋めぐりをしなかったことだ。人生で一度行けるか行けないかの南大東島の飲み屋を体験できなかったこと、不覚である。





山本佳奈子
アジアの音楽、カルチャー、アートを取材し発信するOffshore主宰。 主に社会と交わる表現や、ノイズ音楽、即興音楽などに焦点をあて、執筆とイベント企画制作を行う。尼崎市出身、那覇市在住。
http://www.offshore-mcc.net

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