宮里千里さんのこと/山本佳奈子

 先日『イザイホー』という音源が全国発売された。民俗祭祀採音者の宮里千里(みやざとせんり)さんが、1978年に久高島の祭祀「イザイホー」に数日間張り付いて録音した音源の、ごく一部をパッケージ化したものだ。久高島で12年に一度行なわれていた神女の就任儀式であり、1978年を最後に途絶えてしまったことはあまりにも有名だ。

 今回は、この宮里千里さんという人物から教わったことをここに記録しておきたい。

 見た目はその辺のおじさん。いやすでに60歳を超えているので「おじい」に近いのかもしれない。民俗祭祀採音者と名乗るからには、千里さんは映像も写真も残さず、音ばかりを録り貯めている。主に、奄美、沖縄を含む南西諸島やアジアの祭祀のウタを録音し続けている。1970年代から現在まで、写真でも映像でもなく、音ばかりだ。オープンリールのテープ録音からDAT、デジタルへ録音機材が移行しようと、音ばかりを採取し続ける。

 私は音に執着する千里さんの気持ちが分からなくはない。例えば香港に行った時。横断歩道の信号が青信号になり、独特のカッカッカッカッというあの急かされるような音を聴いて、「ああ大好きな香港にまた来たんだ」とホッとする。また、約10年前に一度きりしか行ったことのないインドでの電車移動中に聴いた「チャーイコーヒーチャーイ」というチャイ・コーヒー売りのダミ声は、今でも脳裏にこびりついている。聴覚情報というものは、さほどみな貴重に扱ってはいないが、記憶を呼び起こすためにとても大事な要素となっている。

 なぜ千里さんが音ばかりに固執するのか、気になって聞いてみたことがある。「ビデオカメラも持ってみよう、とか、写真も撮ってみよう、とか、今まで思ったことありました?」そろそろ私は3杯目、千里さんは確か4杯目か5杯目の泡盛水割りを飲んでいた。「ないねえ」と言ってすぐに、酔っ払いはじめたように思えていた喋り方をピシッと正してこう続けた。「あのね、ウタは一番最初に消えるの。踊りや手の動き足の動きは、受け継ぐことができる。でも、同じウタはなかなか唄えない。」

 あまり祭祀や伝統的な催し事に親しんで来なかった都会生まれの私は、理解するまでに少し間がかかった。なるほど。例えば踊りや動きであれば、ほぼ完璧に型を真似ることができても、声質や声帯までは、真似ることができない。また、祭祀におけるウタとはナマモノであり、その周囲の音もその瞬間にしか出ていない音ということになる。音は瞬時に発せられて、瞬時に消えてしまう。加えて言うと、千里さんは、祭祀の際のウタのみを単独で録音したいわけではなく、その場にいる地元の人たちの話し声やざわめき、町内放送さえも、その場に起こった瞬間の記録として残している。

 また、「カメラを向けられるとね、人はちょっと警戒するでしょ。こういう、パッと見て何かわからないような録音機材を持ってると、みんなあんまり警戒しないのよ」と言いながら笑う。録音師であることは撮影師であることよりも、現場に深く入り込みやすいということだが、実は千里さんは年に1回の祭祀や現場に自費で何度も通って、現地の祭祀を司る人や家族、町役場の人などと、信頼関係を築いたうえで録音している。1978年の久高島イザイホーの際も、12年に一度の祭りが開催される数年前から、週末の休みを利用して通っていたらしい。

 千里さんのプロフィールには、「趣味は、平敷屋エイサー鑑賞」と、書いてある。沖縄本島うるま市平敷屋地区で今も行われている伝統エイサー(お盆の頃に行なわれる念仏おどり)で、沖縄の人々のあいだではとっても有名なエイサーだ。沖縄本島各地で、地域ごとの個性あるエイサーが伝統を受け継いで現在も踊られているのだが、平敷屋エイサーは他のいくつかの地区のエイサーの起源となったとも言われている。千里さんは平敷屋エイサーの録音を私に聴かせてくれて、また、開催される日の情報と場所も得たので、ついに私は今年の8月、平敷屋エイサーを見に行ってみた。

 友人から車を借り、現場近くに着き車を停める。車を降りてエイサーが行われている広場のほうへ向かう。この辺りに住まない限り一生歩くことのないような、人々が住む静かな住宅街を進むと、煌々と照明に照らされた広場が現れた。平敷屋エイサーが開催されていた。踊りをぐるっと囲んだ周りには、見物人がおそらく200名ほどいたが、ほとんどがこの地区に住む地元の人たちのようだった。知り合いや親戚のように見える人同士が明るく会話を交わしながら、エイサー踊りを見守っている。年代はまさに老若男女。ちょっとヤンキーっぽい兄ちゃんもいれば、手をつなぐ孫とおじい、おばあも。ただ、私には誰も知り合いがいない。

 私は、平敷屋エイサーの踊りを見て音を聴きながら、できるだけ早くこの場を去りたいと思った。これは私のようなよそ者が鑑賞するためにつくられたものではなく、この町に住む人々が儀式として行ない継承してきたものだ。地元のための、地元の人たちによる儀式に、何も知らずに野次馬のように来てしまったことに恥を感じた。その土地を、文化を知りたければ、住むか通うか、それなりの頻度と密度と覚悟が必要である。生半可な気持ちで人の土地を踏み荒らすことは自分はしたくはないと思っているけれど、これは、失敗を犯しかねないなと思い、滞在時間たった10分ほどで帰路についた。人の生活を覗き見しているような気になってしまったのだ。

 先にも書いたように、千里さんは久高島でも平敷屋でも、奄美の佐仁でも、どこでも、録音する際には必ず現地の人と交流を持つようにしている。声にも肖像権はある、と千里さんは考えているようだ。那覇に住みながら本島各地や離島へ足を運び、世間話をして自然と仲良くなって、録音させてもらう。本来あるべき取材とは、そういった労力を惜しまず費やして、根気よく続けるものであろう。1回きりの出会い頭のインタビューは、脆い。

 平敷屋での経験以降、自分の取材活動についても考え込んでしまって、おかげでアジアでのインタビューもなかなか取る気にならなければ、自分が本当にやりたい・やるべき取材とは何か、考えこんでしまっている。まだしばらく考え続けるのだろう。自分が今まで気をつけている気になっていた「人の土地を土足で踏み荒らさない」ということ。ちょっと極端な言い方だけれど、やはり私もアジアにおける取材活動で、土足であがりこんでしまった経験があったと、認める。

 CD『イザイホー』は、千里さんによる文章もコンパイルされていて、そこには民俗学者とはまた違った視点の文章が綴られている。現地の人々との会話や交流を大事にして録音してきた千里さんらしい文章で、祭祀を司っていた女性のことが、とても可愛らしく頼れる人物として目に浮かぶ。また、久高島区長が、最後となってしまったイザイホーにおいてとっても肩に力が入っていたことも目に見えてくる。久高島の人たちの想いが、長い時間をかけて対話した千里さんの録音と筆を通してじんわりと伝わってくる。私もいつか、そんな取材ができるようになれるのだろうか。

写真:

そんな宮里千里さんの貴重な録音を、もっと多くの人に聴いてもらいたいと思い、最近「宮里千里さんの録音を聴く会」という企画をたまに行なっている。この写真は千里さんの長女・綾羽さんが撮影してくれたのだが、「社会主義崩壊直前のソ連の大学に招かれた中国の教授と助手が、夜はソ連の学生のイベントでシンポジウムしてるぽい写真」というタイトルとともに送られてきた。綾羽さんの文章や言葉におけるユーモアセンスに、いつも脱帽する。




山本佳奈子
アジアの音楽、カルチャー、アートを取材し発信するOffshore主宰。 主に社会と交わる表現や、ノイズ音楽、即興音楽などに焦点をあて、執筆とイベント企画制作を行う。尼崎市出身、那覇市在住。
http://www.offshore-mcc.net



0コメント

  • 1000 / 1000