イノクマさん/平野甲賀

猪熊弦一郎のことは僕の本(「きょうかたるきのうのこと」2015年晶文社刊)に「月光荘のスケッチブック」のところでちょっとだけ触れたが、猪熊さんに僕はさほど強い関心を持っていたわけではない。僕らの世代では著名な造形家というよりも、むしろ明るくて気軽な先輩デザイナーだといった程度の認識だった。日本橋三越デパートのマチス風の包装紙や上野駅のコンコースの壁画などをすぐ想い浮かべるが、それらはもう完全に風景のなかに溶けこんでいて、なにも気にならない存在になってしまったのかもしれない。そのほうがよほど優れたデザインだといえるのかもしれないが……。

小豆島の内海を望む海岸通りに、かつて森口屋という旅館があった。現在は廃業、3階建て建物と、戦前の画家たちがスケッチ旅行にいつも森口屋に投宿していたらしく、そのおりに置いていったという数十枚のスケッチ画が残された。僕にある日それを見る機会があった。並べられた作品数百点は色紙に描かれたものや画帳に淡彩で描かれたのがほとんどだった。判然としない作者のサインを解読するうちにこれイノクマさんじゃないの? どれ、たしかにゲンイチロウと読める、他の絵描きの作品がオリーブの樹や田舎の風景であるなか、イノクマさんのはいたずら描きのような、なんともコメントしがたい年代もののスケッチだった。

興味を惹かれて香川県立ミュージアム、丸亀猪熊弦一郎美術館へ足を運んだ。さらに「私の履歴書」(日本経済新聞に連載、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館発行)を読んだ。

猪熊弦一郎は香川県丸亀市出身の画家である。一九〇二年生。僕の父親とほぼ同年だ。

イノクマさんの少年時代は、なにに興味をもって、どう行動したのだろうか。いったん面白いとおもうと身体で会得するまで徹底的にのめりこむ。そんなイノクマ少年が住んでいた坂出の家の近隣には「坂栄座」という歌舞伎舞台があったそうだ。小屋は彼の遊び場になった。役者の化粧、衣装、鬘、舞台裏のしかけ、回り舞台の仕組み、絵看板、勘亭流なんかも書けるようになってしまったという。彼にとってはその小屋はシュールな世界だったという。むろん上演そのものへの興味もあったろうが、そうした仮想現実の現場に身を置くことが、いつのまにか彼の創作作法になっていったことは間違いなさそうだ。その後のイノクマ少年時代の紆余曲折は誰しも同じような冒険談だが……。

上野の美術学校を出、やがてパリに遊学することになった。尊敬するあのマチス先生のアトリエ訪問でも彼の眼は見たいものを見る。マチスの創作方法をあからさまに書いている。こうした観察は美術評論家には書けるものではない。マチスの頭のなかの日常性が手にとるように理解できる。おそらくそれは創作家どうしにしか見せることのできないような混乱と自負なのだ。

そうしたことはあの藤田嗣治とのおかしな友情のことでも存分に交わされる。藤田といえば僕等はつい神経質な気難しい男を想像しがちだが、さにあらず、じつに細やかな気遣いの人、そして恐妻家であることを知る。そこで僕は改めて藤田の画集をとりだして開いて見ることになった。

猪熊と藤田は戦火の迫るヨーロッパを右往左往し帰国するが、日本国とて同じ事、いやもっと酷い。こんどは従軍絵師として戦場に送りだされるわけだが、その後も挫けることなく画業を貫徹してくれた。

いきなり話がかわるが、猪熊さんの手癖について考えてみようと思う。それは作品に色濃く出現する、彼の指先、筆先、エンピツの先から流れ出てくる「形」や「線」のことなんだ。これはなにも猪熊さんに限ったことではない。僕が出会ってきた優れた何人かの造形家たちに共通して出現していた。それは個人の癖とか味とか、それが天才たる所以なのだと言ってしまえばそれまでだが、同業者としては,そう簡単に諦め悟ることはできないほど、我が物にせねばならない術なのだ。それは、佐野繁次郎、河野鷹司、小島武、などと作家の名は次々と上がってくる、それで彼らのいったいどの作品の、どの部分がそうなのかと、問いただされてもあまりに具体的過ぎて、しかもあまりに個人的すぎて、そう単純には言わぬが華というものかもしれない。今回はこれにて。



平野甲賀

1938年生まれ。装丁家。
2014年に小豆島に住まいを移した後、
2019年からは高松在住。

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